原子力産業新聞

風の音を聴く

ジャーナリストとして国際報道の最前線を、時に優しく、時に厳しく、歩み続ける筆者によるコラム。──凛と吹く風のように。

ゴーン被告「甘い国・日本」から「風と共に去りぬ」

31 Jan 2020

コラムsalonのリニューアルで新しいタイトルを頂いたので、第1弾は風にちなんだ話を、と思っていたところに起きたのが、日産自動車前会長、カルロス・ゴーン被告の大脱走だった。これってまさに風、『風とともに去りぬ(Gone With the Wind)』じゃない?ゴーン イズ ゴーン。保釈条件を一方的に破り、財力にあかせて高跳びしたゴーン被告。保身と傲慢ぶりに腹が立つが、もう一つ腹の立つのが、大脱走で炙り出された「甘い国・日本」である。「甘い国」の“戦犯1号”はやっぱり裁判所だ。「人質司法」との非難を気にして保釈するなら、少なくともカナダで拘束された中国・華為技術(ファーウェイ)副会長の孟晩舟被告のように、GPS(衛星利用測位システム)装着が不可欠だった。ゴーン被告の反発を回避したかったのだろうか。昔、「雑音には耳を貸さない」と言って国民の顰蹙[ひんしゅく]を買った最高裁長官がいた。褒められはしないが、よほど毅然としていた。パスポートの所持を鍵付きケースで許可したのも失笑ものだ。鍵などその気になれば壊せる。壊さないと本気で思っていたとしたら、お人好しで甘いと思う。弁護団もいい加減で、これまたパスポートの管理が甘かった。在日外国人はパスポート携行が義務だからというのだが、保釈中や裁判の間は代替証明書を出せばよい。それにゴーン被告なら顔パスポートで十分では? 杓子定規で融通が利かず、逃亡防止への備えが足りないことは、最近、保釈中の脱走事件の多いことでも分かる。保釈金額15億円の判断も甘かった。保釈金は被告の収入や財産、罪の重さを勘案し、「被告人にとって戻ってこないと困る金額」にするという。そうだとすれば富豪ゴーン被告の15億円は安すぎる。検察は100億円を提示したとか。それでも逃亡したかもしれない。しかし没収された保釈金は雑収入として国庫に入るから、15億と100億では大違い。財政厳しき折り、ちょっと損した感じだ。ゴーン被告を箱詰めしたプライベート・ジェットを易々と飛び立たせた関西空港も“戦犯”を免れない。もし「御用」にしていたら、関空は世界にその名を残したものを、実際は不名誉を残した。運び屋たちは何十回と来日し、日本中の空港を調べた上で関空を選んだという。恐らく同程度の甘い空港は他にもあったに違いないが、地方では目立ちすぎるので避けたのだ。胸をなでおろした空港はどこだろうか。さて、これだけ失策を重ねながら、責任論がどこからも上らず、結局ウヤムヤになりそうなのも、いかにも甘い国・日本らしい。不祥事が露見すると、頭だけは下げる最近の謝罪も安易だが、お詫びもなければ、ないことへの追及もないことの不思議。その点でメディアの報道ぶりも甘かった。逃亡先レバノンでのゴーン被告の自己正当化と偏見に満ちた日本批判を鵜呑みにするような欧米メディアもある中、ここは事実を正確に伝えることがメディアの役割だし、ひいては一矢を報いることにもなる。同様に法務省はじめ政府の対応も甘いと思う。日本のメディアは検察が異例の速さで反論したと報じたが、発信の相手は世界、世界基準でも異例の速さだったのかどうか。日本の情報発信と情報戦略の立ち遅れはかねてから指摘されてきたこと。それが百戦錬磨のゴーン被告が相手で一段と浮き彫りになった。これからも本を書き、映画のモデルになり、手段を選ばず自己正当化を続けるのだろう。ここは日本も、中東の有力メディア「アルジャジーラ」の英語・アラビア語両放送を使い、発信力のある日本人(誰だろう?)が日本の立場や逃亡の犯罪性を主張するとか、レバノン政府と徹底的に引き渡し協議をする等攻勢に出ないと、官庁ホームページの反論程度では、限界は明らかだ。ゴーン被告の逃亡事件に限らず、何事も一見厳しそうに見えて実は抜け穴だらけ、というのが「甘い国・日本」の特徴である。「甘える」に相当する言葉が他の言語にはない、日本人特有の感情であることを指摘した『甘えの構造』(土居健郎著)は、代表的な日本人論として世界にも知られるロングセラーである。それは風土と歴史の中で時間をかけて出来上がったものでもあるから、一朝には改まらないし、必ずしも今、ゴーン被告逃亡事件で見てきたような負の側面だけではない。「甘い国・日本」は一面では優しい、思いやりの社会を形成して来た。ただヒト、モノ、カネが世界を自由に行き交い、異なる価値観の人間が共生する今日、「甘さ」が弱点を孕むことをもっと自覚すべきなのだ。関係当局が、ゴーン被告を「絶対に連れ戻す」気概をまずは態度で示すことが第1歩ではないか。

飯舘村に「ふくしま再生の会」を訪ねて

12 May 2017

特定非営利法人「ふくしま再生の会」(以下「再生の会」)の理事長、田尾陽一さんの案内で福島県相馬郡飯舘村を訪れたのは桜前線が東北まで北上した4月下旬のことだった。東日本大震災から6年が経った今年は、東京電力福島第一原子力発電所事故の被災地にとってとりわけ節目の春であった。3月31日、飯舘村でも避難指示区域が解除され、帰村の準備であろうか家の手入れや除染作業も随所で行われていて、萌え始めた山の緑とともに村も息づいているように感じられた。事故前に6,000人以上いた人口は多くても2,000人程度と見込まれ、村の将来は楽観を許さない。しかし見方を変えれば、それだけ村民一人ひとりの存在が村には大きくなったことにもなる。周知のように飯舘村は原子力発電所の立地ではない。事故を起こした原子力発電所からも30キロ圏外に位置するが、あの日の風向きで飛来した放射性物質が雨や雪とともに村全域に降り注いだ。テレビが映し出した、廃棄される運命の牛の乳を黙々と絞る畜産農家の男性の姿が今も忘れられない。稲の試験栽培もおこなわれている再生の会は事故から約3か月後の6月に田尾さんら18人が初めて飯舘村を訪れ、畜産農家の菅野宗夫さんと出会い発足した。「村民・専門家・ボランティアの協働による再生」を掲げ、研究者および研究者OB、農家、会社員、公務員、経営者、医師、弁護士など職業も経歴も年代も異なる人々が放射線のモニタリングから放射能の分析、農業や山林の再生、健康医療ケアに至るまでさまざまな活動を行っている。その目標について会の案内書にはこう書かれている。《支援・被支援、村民・村外ボランティア・専門家・行政などの立場の違いや心の「分断」を乗り越えて、「自然と人間の共生関係の再生」こそ、私たちの共通の目標です》6年後の今、会員は300人に達した。その他会員外で学生や一般ツアーでの活動参加者も数百人になるという。訪れた日の放射線量(村役場前)は0.31マイクロSv/時「一度現地を訪れた人は飯舘村を忘れられなくなり、会員になる人が増えていきます」そう田尾さんは言うと、少し笑みを浮かべた。再生の会の今日を語るのに欠かせないのが、副理事長で先述の菅野さんの存在だ。今は再生の会飯舘事務所となっている自宅で、大震災、原子力発電所事故と襲い掛かる災禍に打ちのめされ、不安や混乱、そして不信の中でただただ時間が積み重ねられて行った当時のことを淡々と語る菅野さんに、私たちは返す言葉もなく聞き入った。変化が訪れたのは田尾さんらと出会い1年目が過ぎた頃だ。何か。「絶望的になって1年は感情に走っていた。それが2年目になり変わってきた。データが欲しいと。いくら感情に訴えても最終的に人々の理解がないとダメ。そのためにはデータに基づいた公共性のあることをやらないといけない。だからモニタリングを大事にしている。住民参加で永続的にやる。そのことを基本に再建活動をやっていく」ときっぱりとした口調で菅野さんは言った。ふくしま再生の会飯舘事務所の敷地に作られた野菜ハウスハウスの中の野菜はみずみずしく色鮮やかだ実は現地に到着する前、私たちは再生の会の活動の重要な柱である放射線のモニタリングについて田尾さんから事前レクチャーを受けていた。原子力発電所事故による被災地のモニタリングは多くの研究機関や団体、自治体で行われているが、再生の会は飯舘村の全20行政区を村民が2人一組で行い、専用車による路上測定から徒歩測定、居宅・周辺測定、個人線量測定と、恐らくどこよりも徹底的で自主的、そして継続的に行われている。村民が自ら行うことは田尾さんが提案した。2人が語ることは同じ。そう、確かにここには「分断」がない。絶妙のコンビだなと思った。同時に会員が増えていく秘密、会の魅力はこうした会員や関係者の自主性の尊重、言い換えれば自立する精神にあるのではないかと思った。菅野さんの話はつづく。「多くの村民が関わることが大事だと思う。それが地域を理解することになる。住民によるモニタリングで得られたデータは、与えられたデータではない。再生の会は安全だよとか危ないよということは言わない。現状を正しく知って判断材料にする。強調したいのは見えないものを見える化すること」山林の再生にも取り組んでいる事実をして語らしめる。私もそう教えられ、またそうありたいとこれまで記者としてやってきた。蓄積されたモニタリングのデータはすでに冊子になっており、飯舘村だけでなく広く参考になるものだ。最後に村役場と昨年8月に完成した「ふれ愛館」(旧公民館)を訪れた。読書をする子供やくつろぐ人々の姿があった。会議を抜け出して来てくれた菅野典夫村長(飯舘村は菅野姓が多い)の「福島の原発事故で我々は今、大変な思いをしている。しかし我々はそこから何を学んで次の世代にバトンタッチするのかという一番大切なことが、どうも忙しさの中で忘れられてしまっているのではないか」との問いかけが宿題のように残った。満開の桜を愛でられる日が早く訪れますように21世紀に日本に住む私たちはどのような街を作り、どのように暮らしていけばよいのかということでもあろう。被災地だけの問題ではない。かつて飯舘村は「日本で最も美しい村連合」に加盟していた。村役場が事故前に撮影した村の写真は、青々とした山々と黄金色に輝く田圃が広がりまさに「美しい村」だ。けれど今年4月撮影の同じ構図の写真はと言えば、山は砂を採取された箇所が剥き出しになり、その山砂が撒かれた田圃はくすみ、汚染土などを詰めたブルーのフレコンバッグがそこここに積み上げられている。5年後、そして10年後の飯舘村はどのように変貌しているだろうか。農業再生、山林再生、拠点づくり、記録のためのアーカイブ整備、再生の会のこれからの課題は多い。田尾さんや菅野さん、菅野村長らの奮闘に期待するとともに、私も忘れずにいたい。

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