ジャーナリストとして国際報道の最前線を、時に優しく、時に厳しく、歩み続ける筆者によるコラム。──凛と吹く風のように。
30 Oct 2019
今年は外務省が創設されて150年。先日、東京・六本木の外務省外交史料館の前を通りかかると、記念の特別展示「日本外交の150年」が行われていた。外交はもはや外務省の専売特許ではなくなったが、明治からこのかた日本の外交活動の中心が外務省だったのも確かで、外務省150年は日本外交の150年でもあるわけだ。外務省所蔵の史料を通して、明治2(1869)年の外務省創設から現在までの日本外交の道のりを辿っている。ガラスケースの中の古式ゆかしい条約文書や小道具はいかにも歴史を感じさせ、条約第1号となったオーストリア=ハンガリー帝国との修好通商航海条約(明治2年9月14日)には、初代外務卿(外務省の長官)沢宣嘉の花押があった。花押は平安時代中期から使われてきた署名の形で外務省草創期ならではだ。同条約は不平等条約としても知られる。開国間もない日本は手練手管の欧米諸国から見たら赤子も同然で、不平等条約を結ばせるのは朝飯前だっただろう。だから条約の改正交渉は新設外務省の重要な仕事ともなった。そして25年後の明治27年7月16日、日英通商航海条約が調印の運びとなり、これにより条約交渉は大きく進展したといわれる。ここにはヴィクトリア女王の端正なサインがあった。思わず釘付けになったのは、昭和20年7月20日の駐ソ連大使、佐藤尚武が外務大臣、東郷茂徳に宛てた終戦意見電報である。《満州事変以前ヨリ余リニモ外交ヲ軽侮シ国際関係ニ無頓着ナリシコトカ即チ今日ノ禍ヲ招キタル原因タリ(中略)防共協定以来ノ我対外政策ハ完全ニ破綻セリ…本使ハ率直ニ今次戦争ノ将来絶望トナリタル事実ヲ認識スルヲ要ストナスモノナリ(中略)無益ニ死地ニ就カントスル幾十万ノ人命ヲ繋キ以テ国家滅亡ノ一歩前ニ於テ之ヲ食止メ七千万同胞ヲ塗炭ノ苦ヨリ救ヒ民族ノ生存ヲ保持センコトヲノミ念願ス》電文はまだまだ続く。政府の所信に反することを知りながらこれを言う以上、自分は罪の甚大さを自認するし、敗戦主義者として非難されても結構、どのような責任を問われても受けよう…など等。初めて目にする極秘電報。それにしてもこんな気骨ある外交官がいたとは。もっとも先の戦争では開戦、継戦、終戦のさまざまな局面で、少なからぬ人々が反対や異議申し立てをし、和平を試みた。問題はそれにもかかわらず、沖縄、広島、長崎の悲劇に至るまで誰も破局を食い止めることが出来なかったことであり、そこに失敗の本質がある。終戦工作ひとつとっても後手に回り、時すでに遅く、情勢判断は甘かった。見学者は私と男性1人だけというシーンとした館内で、しばし歴史に浸り立ち尽くして外へ出ると午後の日差しが眩しかった。さて新しい令和の時代の日本外交はどうあるべきだろうか。今や先進国と途上国とを問わず自国第一主義とポピュリズム(大衆迎合主義)が幅を利かせ、国際協調や自由貿易の戦後国際秩序は旗色が悪い。日本がこの風潮にどっぷり染まっていないのは救いだが、そうなる兆しがまったくないわけではない。賢く折り合い、国益に繋げていくことが求められているのだと思う。「永遠の同盟はない。あるのは永遠の国益のみ」とは英国政治家の名言である。電報の「外交の軽侮や国際関係への無頓着が禍を招いた」との文言も切実に響く。また多様なプレーヤーをどれだけ持てるかも外交力の内だろう。10月22日の「即位礼正殿の儀」に191か国・国際機関が参加したことに、私は日本の底力のようなものを改めて感じた。日本は国連加盟国より多い195か国と外交関係を有し、しかもその殆どが出席し、平成の御代替わりの際の160か国・国際機関から大幅増ともなった。政治と一線を画しつつも、令和の時代に皇室外交が日本と国際社会のために役割をますます増して行けば素晴らしい。さらにラグビー・ワールドカップに続いて、オリンピック・パラリンピックというスポーツ外交も国民外交とともに重みを増している。令和の時代は「外交の国・日本」を目指したい。
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ルポ・大熊町を訪ねて -玄関に掛かる「必づ帰る」に込めた思い-
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「必づ帰る」玄関を入ると真っ先に目に飛び込んで来た、半紙に黒々と書かれた四文字。「必ず」ではなく「必づ」に、Sさん(92歳)の帰還にかける思いの強さがより一層感じられた。青空の下、福島県双葉郡大熊町のSさん宅の周辺では、芽吹き始めた木々をはじめ春近しを思わせる光景が静かに広がっていた。けれど一歩屋内に入ると、地震で壊された上にイノシシに荒らされた台所や茶の間は家財道具が散乱し、足の踏み場もないほど、その惨状は想定を超えていた。「都会の人に大熊町の現状をもっと知って貰いたい。そのためには町もおらの家も見てほしい」そう語るSさんを案内役に、大熊町を訪れたのは3月初めだった。あれから6年、隣接する浪江町や富岡町などが4月には避難指示が解除される予定であるのに対して、大熊町はまだ全町民の約96%が居住していた地域が帰還困難区域に指定されている。それでも、年間最大30回(1世帯あたり)という制限の下で自宅への一時立ち入りが出来るようになった。ただし自宅へは上限2時間、1世帯あたり3人までなどの条件がある。「必づ帰る」(筆者撮影)私がSさんに初めて会ったのは2011年11月、場所は避難先の会津若松市にある仮設住宅だった。地震と原子力発電所事故から8か月、世の中がまだ沈んだ空気に覆われていた当時、年齢を感じさせない若さと「故郷は根っこ。厳しくても現実と向き合わねばダメだ。除染して戻りたい。送電線は無事だから今度は再生エネルギーで(社会に)もう一度貢献するのがいいと思う」と語る前向きな生き方にかえって勇気づけられ、将来必ずSさんと大熊町を訪れようと私は密かに誓った。5年4か月後の今回、それが実現したのである。雪の多い会津若松を去り、現在はいわき市の仮設住宅に暮らすSさんと落ち合い、会津若松の知人Oさんが運転する車で一路、大熊町に向かった。広野町~楢葉町~富岡町…と車窓から町々を眺め、あらためて感じたのは、会津若松や郡山などと比べて車の往来の頻繁なことだった。しかもそのほとんどは作業車、見かける人も作業服姿の男性ばかり。復興が進む証ゆえで、それは嬉しいのだが、普通の町にはやはりまだほど遠いということだろう。沿道の黒いビニール袋の山も目的地に近づくにつれどんどん増えた。老若男女が当たり前に行き交う町に早くなってほしい、いつしかそう願っている自分に気がついた。しかし大熊町には新しい変化が生まれていた。空間線量の低い大川原地区に町役場の連絡事務所が出来たのもその一つ。町の復興の新たな拠点であり、一時立ち入りで戻る町民たちの情報交換の場にもなっている。派遣職員は4人。私たちも立ち入りの挨拶に訪れ、Sさんはしばし職員と楽しそうに世間話に興じた。皆、顔なじみ。動静も分かる。コミュニティが成立するには、何よりもこうした場が不可欠なのだと痛感した。無人の大野駅(筆者撮影)Sさんは限られた時間に出来るだけ多くの場所を案内したいと考え、一所懸命プランを練ってくれていた。新設された中高一貫教育のふたば未来学園、6,000人からの作業員に温かい食事を提供する給食センター、作業員宿舎、除染作業を進める常磐線の線路、今は廃駅の大野駅等々。除染されていない土地で試験的に米作の行われている場所にも足を運んだ。そこはSさんの土地や林が広がる場所でもあるからだ。収穫された米は放射能の基準値をこれまで一度も超えていないという。「ここへ来ると小さい頃に川で遊んだことや楽しかったことがいろいろ思い出されますよ」と表情を和ませるSさん。92歳とは思えないSさんの健脚は、生まれ育った大熊町では一段と自信に満ちてしっかりしている。故郷とは何と不思議で力強いものなのだろうと、私はSさんの背中を見ながら思った。Jヴィレッジやオフサイトセンターなどを見た時、私の気持ちはいささか複雑だった。それらは15年以上前に取材で訪れた場所でもあったからだ。福島第一原子力発電所にも入り、当時に聞いた「地震の際には原子力発電所に避難せよ」と言われるほど安全重視の場であること、地元民との共生を目指していること等の話は新鮮だった。しかしその安全なはずの原子力発電所が、東日本大震災ではまさに地震を引き金に筆舌に尽くし難いほどの重大な帰結をもたらした。事故は不可避だったのか、安全神話が崩れた真の原因はどこにあるのか、問いへの答え、つまり宿題はまだ終わっていない。そのことも私が大熊町を再訪したかった理由だ。この宿題は関係者すべてがそれぞれの立場で取り組み、答えていかなければならないのだと思う。再びSさん宅。奥の部屋の背丈ほどの大きな仏壇の近くに、もう一枚「必づ帰る」が貼られていた。「イノシシもこの部屋までは入って来ない。無事だ。必ず復興して見せます。そう先祖様に誓ったから」戻る時間が迫り、後ろ髪を引かれる思いで大熊町を後にした。今、Sさんは自宅が除染される日を心待ちしている。「その暁には、Sさん、もう一度一緒に来ましょう」。私はそう声を掛けた。
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