復興の姿を見失わないために
08 Jul 2016
原子力発電所の事故から5年目の節目が過ぎました。世間では東日本大震災および福島第一原子力発電所事故のことは急速に忘れ去られつつあります。熊本・大分大地震や、相次ぐテロ事件など、世の中に天災・人災のニュースがあふれる今、それは仕方のないことだと思います。
しかし、ごくあたり前のことですが、風化と復興は全く別ものです。復興とは、災害がもたらした負の遺産を忘れたりなくしたりすることではなく、災害を正面から見つめた上で築かれるものでなければ意味がないからです。
漁業の停止が及ぼしたもの
たとえば原発事故により5年間漁業が行われなかったこと。これが意味することは、単なる伝統文化の喪失や経済的損失ではありません。
昨年の9月、相馬市の60代の男性が、試験操業の最中に命を落とされました。
漁業は言うまでもなく大変な体力仕事です。そのため漁が停止している間、浜の若い方々は土木建設業などに携わったり、ジムに通ったりして体力維持に努めているそうです。しかし年配の方はそうもいきません。
この男性は震災で漁ができなくなったことで運動不足になり、急速に慢性疾患が悪化したそうです。試験操業が開始しても実質上漁は息子と他の従業員に任せていましたが、たまたま従業員の方の家に障りがあり、急きょ代わりに漁に出ることとなりました。その久々の漁で、網に足を取られて船から転落するという事故に合われたと推測されています。ご遺体は急な潮流に流され、今も上がっていません。
元々1次産業はリスクの高い職業です。漁業における労災の発症率は建設業の3倍以上、全産業の労災率の7倍にものぼります。5年以上も海を離れた方々にとって、漁業は「今日から漁をしていいよ」と言われて気安く再開できるものではありません。
相馬では、今年ついに高級魚の筆頭、ひらめの試験操業が開始されるようになりました。漁の回復とともに増加しうる労災を防ぐことがなければ、本来の復興とは言えないのではないでしょうか。
避難指示解除の意味するところ
避難指示の解除についても漁と同じことが言えます。避難区域が解除されれば住民の方が「戻ることを許された」場所は増えます。しかしそれは必ずしも「戻ることのできる」場所が増えることを意味しません。
家にも道路にも伸びきった雑草、ネズミやハクビシンに荒らされた屋内、延々と並ぶ黒いフレコンバッグ…、避難指示が解除されたばかりの土地は、新たな人生の始まりにも、ましてや終の棲家にもふさわしいとは言いがたい風景です。
「都会で復興の指揮をとる人は、避難解除を終わりとでも思っているのか」、住民の方からは、そういう苦々しい声も聴かれるのです。
その風景を体感することもなく「どうやったら住民が帰ってくるのか」という議論をすることは現実的ではありません。しかし一方で、「こんな場所に高齢者が帰ってくるのは無理だろう」とよそ者が議論することもまた、傲慢であるように思います。
私自身、両親も祖父母もみな出身地が異なる、という典型的な都会人ですので、土地への愛着を完全には理解できません。しかしこちらに来て暮らすうちに、こちらの方々にとって土地は単なる思い出や財産という単純なものではない、ということが少しずつ分かるようになりました。
それをたとえるならば植物にとっての土壌に近い気がします。たとえば隣町で長期に入院されていた患者さんが、地元の病院に帰ってきた途端に劇的に回復した、ということをしばしば経験します。人々は、医者の理屈では説明できない何かの感覚で土地と結びついているようです。
その感覚を持たないよそ者がすべきことは、帰還の是非を議論するのではなく、帰還されたい方のために、あるいは帰還できない方が新しい土地に根を張れるために、全力で補助することでしかないのではないでしょうか。
今、復興のために
被災地で災害の爪痕が薄れたように見えるのは、ほんの見た目の上だけのことです。しかしその表面上の出来事がニュースなどの「記録」に変換されることで、容易に「本物の復興」であるかのように一人歩きしてしまいます。災害から5年経った今、私たちは改めて被災地に立ち戻る時期に来ているのだと感じます。
「地を離れて人なく、人離れて事なし」とは吉田松陰の言葉ですが、真の復興を達成するため、私たちは改めて土地へ帰り、今回の災害が及ぼした負の遺産を冷静に見つめ直す時期に来ているのではないでしょうか。