原子力産業新聞

福島考

震災以降、医師として福島県浜通り地方に関わり続ける筆者が、地元に密着した視点から記すコラム。

記憶と研究(2)

16 Jan 2019

前稿で医学研究への偏見について述べました。実は、医療情報を用いた研究にはもう一つ根深い問題があります。それは、個人の情報が統計データとして扱われた際の結果や解釈についての責任です。

「患者同意」とは
患者さんのデータを論文などに使用する際には、患者さんへの同意が必要となります。一人一人に説明をして同意してもらう方法もありますし、チラシやホームページなどに載せ、「嫌だ」という方には申告してもらう方法もあります。どちらの方法を取るのかは情報の種類などによって異なりますが、いずれの場合にも患者さんはデータの使用に同意した、とみなされます。

しかし、この同意はデータの「使用」に対する同意であって、データの「解釈」を患者さんが決められるものではない、という点には、留意が必要です。たとえば、そのデータから生まれる論文が、「福島でがんが増えている」という結論になるのか「増えていない」という結論になるのかを、データ提供者は事前に決められません。

結果の不可知性
科学論文の性質を考えればこれは当たり前のことです。統計のためのデータからは恣意性を可能な限り排除しなくてはいけない以上、データ提供者の恣意もまた排除されなくてはならないからです。ただし、実際に自分の医療情報を用いた研究が自分の意図しない結論を引き出していたら、良い気持ちはしないでしょう。

たとえば、私自身も相双地区のスタッフ数が震災直後に激減し、18か月たっても回復していない、という論文を書きました。被災地の医療過疎の解決策がないか、そういう考察を加えていますが、この論文が

「スタッフが逃げたと非難する気か」
「相双地区の医療の質が落ちたかのような誤解をされるのでは」

と非難される可能性も十分あります。幸いそのような非難は受けずにおりますが、福島で書かれた論文のいくつかが社会的に非難を受ける一因が、ここにあると思います。つまり、公正に発表しようと思えば思うほど被災地の方々の意に副わない結果になってしまう可能性もあるのです。

このような事例は疫学調査には起こりがちです。例えば昔、三種混合ワクチンの接種が自閉症のリスクを上げる、という論文が書かれたことがありました。それは、その研究に参加した子どもや親御さんがもともと予測した結論ではなかったのではないかと思います。その後のワクチンの接種率低下とその社会的影響を考えれば、

「あの時同意をしなければよかった」

と後悔した方もいたかもしれません。前稿で、観察研究によって「身体的影響を受ける患者さんはいない」、と書きましたが、間接的な精神的・社会的影響は必ずしもゼロではないのです。

これは、これまでの観察研究であまり患者さんに説明がなされてこなかった点かもしれません。

考察の恣意性
このように、データの結果については恣意性は可能な限り排除されます。それでも論文の結果が「恣意的」と非難されてしまう原因は、論文の「考察」部分にあります。

論文には「結果」だけではなく結果に対する著者の「考察」が加わります。たとえばある値に統計学的有意差が出なかった時、「差がなかった」ことを考察するのか、「統計学的には差がないが平均値には差があった」ことを考察するのかによって、読者が受ける印象は異なります。そういう意味で、科学論文も新聞・雑誌と同じ「ジャーナル」であるという一面もあるのです。

この考察の仕方によって論文が受理されるかどうかが決まる部分もありますので、著者にとって考察は自分の能力を試すとても重要な部分です。インパクトの高い考察を行わなければならない一方で、それが公表された時に社会に及ぼし得る影響にも気を遣わなければなりません。多くの研究者は最大限の気を遣って論文を書きますがそれでも全ての方に配慮するのはとても難しいことです。

個人の情報が社会を救う世界へ
このような困難がありながらも、災害時には皆が情報を提供し、皆が情報を利用できる世界があればいいな、というのが私の持論です。その理由は前稿に書いた通り、未来への遺産として、そして将来の差別に対する武器として必要だと思うからです。

通信技術が発達した現在、私たちは常に情報を作りながら生きています。SNSやインターネットの検索データ、クレジットカードの使用データなど、今やすべての行動が情報化されているといっても過言ではありません。医療情報・健康情報もまたその一つです。

少し前までは、病院を受診し、あるいは検診を受けたデータは、その個人にとってのみ有益なものでした。しかし今、一人の患者さんの記録が、より多くの患者さんを救うことができる時代となっています。ただし、医療者は、こういうことを患者さんにあまり説明したがりません。なぜなら、前稿で述べたような偏見から、このようなことを言えば言うほど「患者をデータとしてしか見ていない人」と思われてしまい、患者さんとの信頼関係が崩れてしまう危険があるからです。

被災地において眉を顰められてしまう「医学研究」や「データ」たちは、現在進行形の復興の過程や被害を残すための社会の記憶でもあります。それは、いつか先の時代の人々が歴史を振り返ったときにはじめて学べる教科書にもなり得るでしょう。そういう意味で、医学論文の風評被害が払しょくされることもまた、発展的復興の一助となるのでは、と考えています。

そのためには、研究者がデータを提供する人々への感謝を忘れず、それが社会に還元されるために存在するのだということを常に認識し続けることが大切です。被災地の方々が自身を「モルモット」などと考えることなく、未来への遺産を築いているという誇りを持てる社会を築くため、科学者が反省し、努力すべきことがまだまだ残されている、と感じます。

越智小枝Sae Ochi

Profile
東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 主任教授
1974年生まれ。東京医科歯科大学卒。都立墨東病院医長などを経て、インペリアルカレッジ・ロンドンで公衆衛生を学び、東日本大震災を機に被災地の医療と公衆衛生問題に取り組んでいる。

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