原子力産業新聞

福島考

震災以降、医師として福島県浜通り地方に関わり続ける筆者が、地元に密着した視点から記すコラム。

3月11日金曜日

16 Feb 2022

先日南相馬で人と話していた時のことです。

「今年の3月11日は震災の時と同じ金曜日なんですね。」

カレンダーを見てつぶやいた瞬間、相手の表情が一瞬崩れたのを見て「しまった」と思いました。同時に私の中にも、感情の振れ幅そのものとしか言いようのない塊のような感情が、一気にこみ上げてきました。

11年後の傷

何気ない日常会話の最中に突然過去の記憶が鮮明によみがえり、堰を切ったように泣き崩れてしまう。震災後数年の間は、こういったフラッシュバックの光景をしばしば見かけました。震災から10年以上が経った今、そういう人を見かけることはほとんどありません。それでも何気ない瞬間、急にかさぶたを剥がされたような反応を見ることがあります。

私自身は津波や原発事故を直に体験したわけではありませんし、相馬に住んでいる間も知らないことを学べる楽しさの方が圧倒的に多かったと思っています。それでも、些細な言葉や風景をきっかけに、当時ぶつけられた攻撃的・否定的な言葉の断片が、それを発した方々の余裕のない表情と共に、一気に甦る、という現象をしばしば体験します。

震災の後の福島で、なぜあれほど多くの人が必死に傷つけあわなければならなかったのだろう。10年以上が経った今もなお、その疑問は答えを得られず宙に浮いたままです。自分と意見や方針が異なる相手を、ときに相手の性別や出身地をけなすような暴言を用いてまで言い負かそうとする。それが災害後のパニックによる不毛な争いであった、そう言い捨ててしまうことは簡単でしょう。私自身も、マナー違反の言葉など聞くに足りない、と、なるべく耳を塞ごうとしていたように思います。

しかし、自己防衛のためとはいえ、悪い言葉にのみ耳を塞ぐ、という事は可能だったのでしょうか。

エネルギーに善悪はあるのか

物質の世界において、エネルギー自体に善悪はありません。原子力が医療や発電にも武器にも用いることができる。それと同様に、人が何かを変えようとするエネルギーには正負の別がないのでは。最近になって、ようやくそう考えることができるようになったと思います。

たとえば環境活動家であり、大人を痛烈に批判することで有名なグレタ・トゥーンベリさん。彼女自身がもつエネルギーには、よくも悪くも人を動かす力があります。また少しジャンルは違いますが、1年ほど前に日本で流行した「うっせぇわ」という歌はその歌声と歌詞が、鬱屈した世代に強く訴えかけるものでした。いずれも若者らしい率直な物言いが共感を呼ぶと同時に、ときに暴言ともとれる言葉遣いには反論や罵倒の声も聞かれています。

もちろん社会のルールも知らない若者の言葉遣いをある程度たしなめることは大切でしょう。しかし彼女たちの発言や歌からそのような負の要素を取り除けば、社会も動かせるそのエネルギー自体も失われてしまうのではないでしょうか。

我々大人世代は、マナーを知らない若者を批判する一方で、若者に対し「柔軟な発想からのイノベーション」を安易に求め続けているようにも見えます。自分と違う発想を期待しながら、自分たちを否定する若者は要らない。そのような都合の良い線引きは恐らく存在しないでしょう。たとえ悪い言葉であっても、そこにいくばくかの真実と何かを打開するエネルギーとが存在するのであれば、たとえ傷ついてもそれらの言葉を真正面から受け入れる。そういう人間もまた必要なのかもしれません。

復興の副作用

若者が声をあげる。災害の低迷期に声をあげる。どちらの行為も、その先頭を切るのは特別に大きなエネルギーのある方々です。震災直後に福島に関ってきた方々は皆、何かに対して必死であった、それだけは確かです。そのエネルギーが時に生産的なイノベーションにつながることもあれば、時に罵詈雑言のような負のエネルギーにもつながる。もしかしたら当時の罵倒は、復興という生みの苦しみに伴う「副作用」だったのかもしれません。

今般のコロナ禍でも、多くの方が言葉や情報の暴力により心の傷を負っています。そういう方々が何年か後に、私と同じようにふとかさぶたを剥がされたような痛みを経験するのかもしれません。もちろんそんな心の傷は、ないに越したことはありませんし、その喧騒が必要悪だとは認めたくない自分もいます。しかし一方で

「傷の残らないよう適度に声をあげなさい」

と諭すことは、福島で見られた復興のエネルギーを否定することになってしまうのかもしれない。11年が過ぎた今、新たに生まれているジレンマです。

記憶の為の傷

当時の辛い記憶が甦る経験は、決して気持ちの良いものではありません。しかしそれは同時に、記憶が薄れつつある自分に対する後ろめたさを和らげてもくれます。忘れたように見えても自分の中のどこかに、当時の福島を忘れない自分が居て、それが自分の核を作っている。そう感じることは一つの救いでもあるのです。

その傷は必要だったのか。その問いへの答えを探すため、「3月11日金曜日」が惹起する全ての記憶に改めて向き合ってみようと思います。

越智小枝Sae Ochi

Profile
東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 主任教授
1974年生まれ。東京医科歯科大学卒。都立墨東病院医長などを経て、インペリアルカレッジ・ロンドンで公衆衛生を学び、東日本大震災を機に被災地の医療と公衆衛生問題に取り組んでいる。

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