持ち帰る復興
30 Aug 2019
「先生、これ、おすそ分け。」
先日相馬市に行った際、趣味で畑をやっている、という方に手招きで呼ばれました。
「しばらく畑に行けない間に育っちゃって。」
と、なぜか恥ずかしそうに手渡されたのは、大粒のジャガイモ・玉ねぎ・キュウリが一杯に詰まった10㎏ほどのビニール袋。
「本当にこんなにいただいていいんですか?」
口ではそう言いつつ、既にそのピカピカの野菜をしっかりと抱えている私。そんなやりとりが、収穫時期の風物詩となりつつあります。
数年前までは、
「放射能とか…気にしますか?」
と、こちらの反応を窺ってから物を下さる方も多くありました。昨年あたりから、そんな前置きなしに、ごく自然にいただきものをするようになったように思います。少しずつではありますが、地域での風評が払拭され、本来のお裾分け文化が回復してきた証拠なのかもしれません。
そして、私のようなよそ者にとっては、そんな今と比べて初めて、当時の人々が失ったものの大きさが見えてくることもあります。
豊かさの勾配
「お裾分け」の文化は、私が福島県に関わるようになったから初めて学んだものの一つです。
もちろんその言葉自体は昔から知っていましたし、「ちょっとお裾分け」と物を分け合うことは、東京でもよくやっていました。その時のお裾分けはコミュニケーションを円滑にする手段のようなもので、向こうがお裾分けをくれたから今度は自分も、というような感覚だったと思います。
しかし福島でお裾分けをいただくときには、不思議なほど「お返しをしよう」という気持ちが浮かびません。たくさんの野菜や果物、お米や濁酒…気づけばこの数年で、いただきものばかりをしていますが。それに対してお返しをしたことがほとんどないのです。もちろんそれは、私自身のずぼらさのせいもあるでしょう。でも一番の理由は、そのいただきものは、自分よりも豊かな方から文字通り「裾」を分けていただいたものである、という認識が私の中にあるからだと思います。
お裾分けとは本来、余りものを分け与える、という意味があります。福島でいただくお裾分けは、その意味通り、豊かさの勾配に従って高いところから低いところへ流れてきます。その勾配を逆流してお返しをすることは、おこがましい、とまでは言わないまでも、なにか不自然にすら感じてしまうのです。
一方で私も、一人暮らしには余る量のいただきものをした時には東京の職場や実家に「お裾分け」をすることがよくあります。
「それ、ちょうど欲しかったの。」
「なにこれ!美味しいね。どうしたの?」
知人や家族から言われる時のうれしさは、買ってきたお土産を渡すときの楽しさや、福島に関わる以前に東京でやっていた「お裾分け」とは全く違うものです。人にいただいた豊かさを更に別の人に与え、受け取ってくれた方の反応からさらに幸せをいただく。本当の豊かさというものは、そういう循環を繰り返しながら増えていくものなのでしょう。
原子力発電所事故で失ったもの
2011年の原子力発電所事故の後、里山や浜のあちこちで
「山菜を子どもや孫に食べてもらえなくなった」
「釣ってきた魚を自分だけで食べるようになった」
そういう嘆きを耳にしました。そのことを私自身も喋ったり書いたりしたこともあります。しかし私は本当にその喪失を理解できていたのでしょうか。当時私のイメージにあったのは、食文化や家族の団らん、人とのつながりの場を失うこと―そういう表面的なことであったように思います。もちろん今でも、地元の方々が失ったもののすべてが理解できているとは思いません。でも、それが少しだけ理解できるようになったのは、自分自身が東京で福島のお裾分けをするようになってからのことでした。
「放射能とか、気にしますか」
そう聞かなくてはいけなくなった時点で、豊かさの象徴であったお裾分けが「受け取ってもらう」ものに成り下がってしまいます。そのひと言で、増えていくはずだった豊かさの循環がどれだけ断ち切られてきたのでしょう。今、本当のお裾分けをいただくようになり、改めてそのことを思います。
持ち帰る豊かさ
お裾分けをいただくとき、私の顔は自然にほころびます。それは自分の内面から生じたものというより、分けていただいた豊かさがそのまま自分の面に出てくるような、不思議な感覚です。貨幣経済だけに慣れて育った私のような人間は、福島に来ることがなければそんな文化を学び直すこともできなかったでしょう。
に昔から暮らしてきた方々にとって、大地や海からの大きな恵みのお裾分けは、まだ完全には回復していないのかもしれません。しかし災害をきっかけに、お裾分けの循環を、東京へ持ち帰る私のような人間も増えていくのではないでしょうか。福島の外へと広がるお裾分け。それは失われた文化を埋め合わせる、大切な「正の遺産」なのかもしれません。