原子力産業新聞

福島考

“してもらう” という情報発信

17 Aug 2022

先日、福島県内のいくつかの地域を回り、福島第一原子力発電所の廃炉について今、地元の方がどのように受け止めているのかをお聞きする機会がありました。

興味深かったことは、参加された方のほとんどは放射線や廃炉についてかなり詳しい知識を持っているにもかかわらず、ほぼ全員が

「廃炉についての情報が足りない」

と答えられたことです。では彼らが感じる「足りない情報発信」とは何なのでしょうか。

廃炉の「肌感覚」

「生活圏の中にまだまだ避難区域があって、たとえ家に帰れても『実のなるものは作らないでください』と言われます。作っても毎日が増えてしまった猿とかイノシシとの戦い。廃炉の情報を分かりやすく伝えるだけでなく、そんな事実も伝えていただきたい」

ある浜通りの農家の方のご意見です。

また、風評によって損なわれた市場での競争力が、廃炉が進んでも回復しない、その心配を知ってほしい、という方もいます。

「この10年で日本や世界での市場が失われました。このままだと福島がなくなるかもしれない、という感覚すらあります。震災後、自慢の桃を目の前で吐き出された経験がある私たちからすれば、『美味しいものを作れば売れる』というような単純な問題ではないんです」

原発から山脈2つを隔てた会津地域の方々からですら、そんな切羽詰まった声が聴かれました。

義務化する廃炉

一方残念なことに、受け手側の廃炉関係者の中にはこういう話を聞くと、「またきた」とばかりに心の耳を塞いでしまう方がいます。自分たちが責められている、と感じて身構えてしまうのはやむを得ないかもしれませんが、明らかに用意してきたと思われる弁明だけを述べる方を見ると

「この人たちは今でも地元の方をパターン化してしまっているのかな」

と感じることもあります。

被害者である住民と加害者である政府・東電。今もなおこのような構図を描きがちなのは、実は住民ではなく施策者側であることが多いように思います。

「廃炉に携わる東京電力の新入社員が生きがいを持って入社できているのか」

「生きた『廃炉』を次世代にバトンタッチしたい」

参加者の中からはむしろ、廃炉関係者の生きがいを問うような言葉も聞かれるようになっています。

「今の廃炉は、日常生活から浮いた『義務』のようになってしまって、皆が疲れた顔をしています。これを義務ではなく日々の営みとして機能させる必要があるのだと思います」

ある会社経営者の方がおっしゃった言葉です。

目の前で行われている「廃炉」が自分たちの暮らしと切り離された結果、次世代に残したい、と思えないような科学的情報や事務作業の羅列となってしまっている。地元の方々が一番違和感を覚えるのは、そんな今の発信の在り方なのではないでしょうか。

もちろん、国にとっては廃炉は義務なのでしょう。しかし過剰な自己防衛と、その結果としての無味乾燥な作業の繰り返しが、この「義務感」を地元に浸透させてはいないでしょうか。放射能を減らすこと、安全を確保すること、風評を払拭することそんな義務ばかりを強調し、それに携わる現場の人々が活き活きと暮らせない国策。それは、地域を守る施策としては本末転倒と言っても過言ではないと思います。

生きた発信とは

もちろん活き活きとする事と浅薄な楽しみを吹聴することは異なります。

「とにかく来ていただいて、福島を好きになって欲しい。でもその後に10年前の悲しい事故の歴史を知れば、その美味しさ、美しさがより深いものになると思います」

物づくりを続ける人々が、異口同音におっしゃったことです。

「好き」「楽しい」「すごい」という肌感覚があれば、その背後にある不幸な歴史はその感覚を深めることはあっても、決して風評被害となることはない。それこそが、福島にプライドを持つ方々が経験から学ばれたことなのだと思います。

そして面白かったことは、色々な方と情報発信の話をすると、知らず知らずのうちに必ずと言っていいほど

「とにかく来てほしい」「食べて欲しい」

という言葉に帰結することでした。

情報発信とは、情報の受け手に何かを「知ってもらう」「学んでもらう」手段です。それがなぜ「来てもらう」ことにつながるのか。これは、人の学び方の多様さにあるように思います。

マネジメントの創始者として有名なピーター・F・ドラッカーはその著書の中で、人には各々得意とする学び方がある、と書いています[1]Peter F. Drucker, “Managing Yourself”, Harvard Business Review.。学校の勉強のように読んだり書いたりして学ぶことが得意な方もいますし、経営者の中には、何かを書いたり人に語ることで学ぶ方も多いでしょう。

そして学び方はそれだけではありません。福島に関わる方には、「食べて」「育てて」「作って」「してあげて」学ぶことが得意、そんな方が特に多いように思います。このような方々に情報を届けるためには、その学び方に合わせた発信が必要なのではないでしょうか。

「受信者が行動する」情報発信

それは「情報発信の結果、人が来る」のではなく、人が来て、食べて、作業をしてもらうこと自体が情報発信の「手段」なのだ、という発想の転換も必要ではないか、ということです。

今、情報発信と言えば文字や絵、動画で発信するといった、受信者が受け身のものが大半です。しかしいくら有名YouTuberを呼んでも、その発信は「書いて学ぶ」人や「喋って学ぶ」人、ましてや「食べて」「作って」「育てて」「してあげて」学ぶことが得意な人と言った、能動的な学びが得意な方には届かないのではないでしょうか。WebページやYouTubeにこれだけ多くの発信がなされていてもなお、多くの方が

「情報発信が足りない」

と感じるのは、このある意味偏った情報発信のせいなのかもしれません。

世の中にフェイクニュースが氾濫し、流される文字や映像の持つ価値は不安定なものとなっています。そんな今だからこそ、私たちは“してもらう”という情報発信を真剣に考えるべきなのかもしれません。

脚注

脚注
1 Peter F. Drucker, “Managing Yourself”, Harvard Business Review.

越智小枝Sae Ochi

Profile
東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 主任教授
1974年生まれ。東京医科歯科大学卒。都立墨東病院医長などを経て、インペリアルカレッジ・ロンドンで公衆衛生を学び、東日本大震災を機に被災地の医療と公衆衛生問題に取り組んでいる。

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