もやもや感の正体
04 Sep 2023
8月24日、福島第一原子力発電所廃炉作業に伴う処理水の海洋放出が始まりました。その結果自体は、多くの方にとり予測通りの結果であったと思います。それにもかかわらず処理水問題は様々な立場の方に、何とも言えない「もやもや感」を残しているのではないでしょうか。
興味深いことに、多くの方がその不満足感の原因を「コミュニケーション不足」に帰しています。
「十分な時間を尽くしていない」
「十分なステークホルダーが関わったとは言えない」
「住民から十分な合意を得ていない」
処理水の議論が始まった当初から繰り返されてきたこの批判が今も続いていることに、私はやや違和感を覚えます。なぜならまるで「コミュニケーション」や「合意形成」が、目的として独り歩きしているかのように聞こえるからです。しかし当たり前のことですが、コミュニケーションや合意形成は、手段とプロセスであって目的ではありません。
コミュニケーションの「何」が足りないのか
コミュニケーションが手段として成立するためには、「場」と「技術」と「目的」が必要です。福島のコミュニケーション不足について語られるときには、時間やステークホルダーといった「場」の不足が指摘されることが多く、技術と目的の不十分について論じられることは少ないように思います。しかし実際には、目的を見失った議論が迷走していることこそが問題なのではないでしょうか。
たとえば海洋放出される処理水やトリチウムについて話し合うときに、ある場所では
「トリチウムに人体影響はほとんどない」
「いや、細胞内に取り込まれればβ線であっても危険だ」
という「トリチウムの人体影響」についての議論が起こり、別の場所では
「どんな微量の放射能であっても、海洋に放出されれば風評被害は免れ得ない」
「でも処理水を貯蔵するタンクを増やし続ければ地域全体の風評被害につながる」
という社会的影響への懸念が対立し、さらに別の場所では
「政府は結論ありきで人の話を聞いていない」
「丁寧に耳を傾けてはいるが現実的な案が出てこない」
というコミュニケーション技術への批判が繰り返されています。このことからも、「処理水をどうするか」という漠然としたテーマで議論が行われることにより、コミュニケーションが方向性を見失っていることが窺えます。
目的が明確でなければ、何に対して「住民の合意を得る」のかの解釈は、個々人に委ねられます。その結果、皆が好き勝手な話題を持ち寄り、密なコミュニケーションを行っているという幻想を抱いたまま、かみ合わないまま議論が対立だけを生んでいく。震災後の福島では、そんな状態が幾度となく繰り返されてきたように思います。
処理水問題の土台
処理水問題について議論の目的を整理してみれば、溜まり続けている処理水を
- 溜め続けるのか、それともどこかに処分するのか
- 処分をするとすればどのような方法を取るのか
という極めてシンプルなものです。ただし、このシンプルな内容を議論するためには、まず初めに下記についての偏見なくかつ平等な情報共有がなされる必要があったと思います。
- 溜め続ける方法・処分する方法の全ての選択肢
- 各々の選択肢についての現状での利点・欠点
- 各々の選択肢で一番リスクを負うのはどのような人々なのか
- リスクを低減する方法やリスクを負う人々へ補償する方法はあるのか
- 現状の技術の不確定要素は何か
- その中でイノベーションによって変わり得る要素はあるのか
- 不確定なイノベーションに賭けるリスクは他のリスクとどのように違うのか
これらを共有して初めてすべての人が同じ土俵に上がり、議論が始められるのではないでしょうか。もちろんこれらの選択肢は何度も話題に上げられています。しかし最初の知識共有について重要なことは、その場で決して賛否や「べき論」を混入させないことです。
多くのコミュニケーションの場では、すべてを俎上に挙げる前から早急に賛否の議論が起こり、安易に「政府の意向」「住民の意向」「海外の常識」「実現可能性」などの主観的に基づく分断が起きていたと思います。ブレインストーミングの原則が守られなかった、という点では、確かに処理水問題は「コミュニケーション不足」であったのでしょう。しかしそれは時間の問題ではなく、「技術」と「目的」の問題だった、というのが私の意見です。技術なく場を設けても、目的なく技をふるっても、そのコミュニケーションからは何も得られないのではないでしょうか。
コミュニケーションは夢の道具ではない
しかし、たとえ技術と目標が完璧であっても、コミュニケーションが満足度を上げるという保証はない、という点にも留意が必要です。今回の処理水問題でもう1つ気になった点は、コミュニケーションさえ上手くいけば物事が解決したかのような空気感が広がっていたことです。人々の不満を「コミュニケーション不足」のせいにすることで、
「誰かが損をしなければならない」
という本質が語られないまま議論の停滞が生じているのではないでしょうか。
リスクコミュニケーション、特に特定の人にリスクを負わせる議論は、決着はつかないことがほとんどです。比較や交換が不可能な性質の異なるリスクが絡み合う中、万人が同意することはありえないからです。むしろ大勢にとっての落としどころが、少なからぬ方に不本意な結果となる場合の方が多いでしょう。
そう考えれば、議論の結果だけを見ていても「なし崩し的に決定された事項」と「コミュニケーションを尽くしても不本意な結果に終わった事項」との間に差異は認めにくいということになります。つまり本来コミュニケーションを尽くすべきであった状況も
「それ以外に選択肢がなかったのだから、仕方ないではないか」
という結果論で済ませてしまうこともできてしまうのです。コミュニケーションについての反省が難しい点はここにあります。
「もやもや感」の正体は?
では、コミュニケーション不足と、不本意な結果に終わるコミュニケーションとの差は何なのでしょうか。それはリスクを負う方々が「自分たちは何に負けたのか」を認識できることではないかと思います。どんな利害やパワーバランスによってその選択がなされたのか。そこにはどのような葛藤と逡巡があったのか、なかったのか。それが分かって初めて、住民の方も堂々と
「結果ありきの議論だった」「コミュニケーションはガス抜きの場としか認識されなかった」
と批判することができます。しかし現状では、本当に結果ありきだったのかさえはっきりしないまま、空気を読んだ批判しかできないのです。今私たちが感じている「もやもや感」の正体は、そんなところにあるのではないでしょうか。
コミュニケーションは結果ではない。逆に言えば、海洋放出という「結果」が明らかになった今でも、コミュニケーション不足の改善は可能だということでもあります。
「コミュニケーションさえきちんとしていれば物事は解決していたのに」
結果だけ見て漠然とした詠嘆で終わることなく、これからも議論が続くことを祈っています。