原子力産業新聞

福島考

確保されない未来

04 Sep 2024

病院で働いている時、しばしば時間を取られる作業の1つに「患者さんからの同意書の取得」というものがあります。検査や医学的処置を行うときに、「どのくらいの確率でどのような有害事象が起きるのか」についてこと細かに説明した文書をお渡しし、1つ1つに患者さんの署名をいただく、という作業です。稀な有害事象もすべて羅列される説明書は、時に10ページ以上にも及び、患者さんに読んでいただくのも一苦労、というときさえあります。

医療者がどんなに努力しても有害事象はゼロにできませんので、全ての可能性を説明して同意をいただくことは大切です。しかし患者さんからすれば、同意することで有害事象の責任を押し付けられたように感じるのではないか、といつも心配してしまいます。

医療と同様、原子力業界もまた、有害事象について細心の注意を要する業界です。しかし面白いことに、想定される有害事象への対応の仕方は、医療とは全く異なります。

予見可能性の確保

先日ある原子力関係の会議で「予見可能性の確保」という単語を耳にして、とても興味深く感じました。

予見とは「根拠を持って先に起こることを見通す」ことを言いますから、「予見可能性」とは「科学と論理の力で未来を予測する能力」を指すのだと思います。もちろん医療分野でも予見可能性を高める研究は行われています。しかしそれを「確保する」という表現はほぼ使われません。医療では「人の体は何が起こるか分からない」という前提が当たり前に許容されているためです。

では原子力の世界ではなぜ未来予測を「確保」する、という表現がされるのか。これは原子力の利活用が政策主導で行われて来た、という歴史にも起因しているのかもしれません。たとえば税金や国債価格のように人が動かしうる規則については、国が「予定」することができます。その予定を事前に周知することで、国民は未来を「予見」することができる。「予見可能性」を「確保」したという言葉は、このような文脈でしばしば用いられるからです。

投資と予見可能性

ただし、原子力業界では人が予定する要素以外の文脈でもしばしば「予見可能性」という単語が用いられます。その1つが、企業からの投資を促進する、という文脈です。巨額の投資を必要とする原子力においては、投資家の意欲を促すために、未来のコストがある程度予見できることは重要でしょう。しかし投資リスクの全てを予定することはできませんし、利益(や損益)の先行きが「確保」された時点で、それは投資とは呼べないのではないでしょうか。

もちろん社会が不安定になり、未来予測が困難になればなるほど、投資家は予見可能性をより強く求めるようになるでしょう。しかし国債や税金とは異なり、人々の要求全てに応えようとすれば、金銭の流れに何らかのひずみが生じうることは想像に難くありません。

予見可能性と回避可能性

予見可能性が議論されるもう1つの場面は、労働災害における「安全配慮義務」の文脈です。

賠償問題において、ある事故が「予見可能(想定内)」と判断されるか否かは重要なポイントです。それにより有罪性や責任の所在、補償・賠償の程度が変わるからです。この種の予見可能性は、原子力だけではなく一般的な労働災害や交通事故でも度々議論されます。

ただし通常の場面では、「世間の常識」と照らし合わせてどこまでが「予見可能」なのか、たとえば交通事故では、どのレベルの「不注意」までであれば「常識的に予測できたこと」とされるのか、ということが議論の焦点になります。一方で原子力の世界では、予見可能性が「最高水準の科学的知見」と照らし合わせて語られる、という点に特殊性があるように思います。つまり科学者が1人でも予測した実績があれば、それが「予見可能であった」とみなされうるということです。

これは医療から見るとかなり不思議なことです。たとえばある薬を使ったときに、既に報告されている副作用が出ても、その後にきちんと対応すれば責められる医療者は少ないでしょう。しかし原子力の世界では、過去に一度でも想定された事故が実際に起きれば、対策を取らなかった責任者は「予見できたのに予防しなかった」ことにつき、大きな責めを負うことになります。

この根底には1回の事故の大きさは個人の生死などとは比較できないほど重大だ、という論理もあるでしょう。それに加えて、「予見可能性」と「回避可能性」が同一とみなされる、原子力独特の安全文化もあるように思います。

しかし予見性の確保は「減災の確保」に必ずしもつながらない、という点には留意が必要だと思います。当たり前のことですが、多くの災害における「予見」は、災害が起こらない限り信憑性の確認はできないからです。また予見性を高めすぎることで柔軟性が失われることもまた、リスクの回避可能性を下げる可能性もあります。

確保されない未来を歩く

予見に対し回避不可能性を強調する医療と、回避可能性を強調する原子力。一見正反対に見える職業文化ですが、「全てのリスクを予見できているように振る舞う」という点では非常に似ている、と感じます。このような文化を生んでいるのは、おそらく「失敗しないことが当たり前」という社会からの強力なプレッシャーです。

社会のプレッシャーや期待の全てが悪いとは思いません。オリンピック選手と同じで、強力な規範が関係者の矜持や安全文化を支えてくれていることも確かだからです。しかし過去、社会規範に踊らされすぎた頭脳集団が安全神話を作り出してしまった。その歴史もまた、私たちは忘れてはいけないでしょう。

安定感を失う社会の中で、未来は益々不透明になっています。そんな中、確保できない未来を確保「したつもり」になることは、最も危険な神話の温床となるでしょう。未来を恐れつつも「確保されない未来」を患者さんや、地域住民の方などと上手く共有できないものか。積み重なる同意書を処理しながら、日々そんなことを考えています。

越智小枝Sae Ochi

Profile
東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 主任教授
1974年生まれ。東京医科歯科大学卒。都立墨東病院医長などを経て、インペリアルカレッジ・ロンドンで公衆衛生を学び、東日本大震災を機に被災地の医療と公衆衛生問題に取り組んでいる。

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