原子力産業新聞

福島考

人とモノの距離

28 Feb 2025

モノがつなぐゆるい絆

「先生、お米をもらってくれませんか」

ある日、南相馬で突然お米を10㎏いただく、ということがありました。お聞きしてみると、その方のご家族が急に亡くなったのですが、亡くなる直前に新米を大量に注文してしまっていたのでもったいないから、とのことです。不思議なもので、それ以来お米を見る度にこのエピソードが繰り返し思い出され、お会いしたこともない方なのに偲ぶような気持ちになります。モノを介してつながる、そんなゆるくて温かいつながりが好きです。

今、人の距離が近づきすぎている。そう感じることがしばしばあります。今やインターネットで瞬時に人とつながってしまうために、人間関係の距離を取ることが益々難しくなっているからです。ちょっとした行動が一瞬にして炎上する「一億総監視社会」「一億総クレーマー社会」などは、そんな人の近さの弊害とも言えるでしょう。

ネオデジタルネイティブ世代と呼ばれる方々は、インターネット上での人と人の衝突も「リアル」と感じる世代です。このため、衝突を回避するための「空気を読む」能力が非常に発達しているように見えます。その鋭敏すぎる共鳴力・共感力ゆえに、彼らは強力な一体感や蜜な関係を単純に楽しいものとは感じられなくなっているようにも見えます。

 「中の人」

先日、大阪大学に勤める友人からある学生さんの話を聞きました。

大阪大学では2016年から「福島環境放射線研修」という実習が行われています。この実習が年々人気を増し、参加者が200人ほどまで増えた結果、2024年には福島県大熊町に「大阪大学福島拠点」が設立されるに至りました。その参加者の一人である学生さんが、ある日「私は大阪大学から来ました」と自己紹介したところ、地元の方に「ああ、あの大熊のね。」と言われたそうです。

興味深かったのは、その学生さんの反応です。彼女は

「私も福島の『中の人』になっちゃいました。」

と、何とも言えない複雑な表情で友人に報告してきた、とのことでした。

「中の人」というのは元々ネットスラングで、アニメの配信やアプリの運営・開発を行う人など、サービスにおいて黒子的な役割を務める人を指します。つまり単なる身内ではなくその場に責任も持つ、というニュアンスが含まれているのです。

もちろん推測でしかありませんが、この学生さんにとって、遠い場所から訪れる福島は、空気を読むプレッシャーから解放される心地良い距離だったのではないでしょうか。それがいつの間にか「自分事」になっていた。その事実を自覚し、うれしい反面、その責任に戸惑ったのではないかと思います。

 距離が生む当事者意識

これは決して悪いことではないと思います。なぜなら、学生さんはそれでもこの「自分事」からいつでも逃げることができるからです。

近年ますます聞かれるようになった「コミュニティづくり」という言葉は、高齢化・過疎化が進む中、徐々に重く、切迫感のあるものになっていると感じます。人間関係・信頼関係を高めなければ、と言われる度に、すこし後ずさりしたくなる気分になることもあります。コミュニティを自分事として考えるためには、物理的・精神的な距離を取れる少し「無責任な」距離感こそが必要なのではないでしょうか。

私自身、コミュニティにコミットする、という重さには抵抗があります。それでもモノを介した薄い縁を繰り返すことで、いつの間にか浜通りが他人事ではなくなっていきました。人のアラは見えないけれども温もりは感じられる程度の距離があって初めて、当事者意識を持つ余裕が生まれる。そんなこともあると思います。

大災害の後に社会が分断され、帰還困難が続いた浜通りでは、人を受け入れながらも距離を取ることでむしろ自分たちを「自分事」と思ってもらう、そんな距離の取り方が徐々に発達してきたように感じます。物理的・精神的に遠い方々こそ、改めてその距離の心地よさを経験できるとよいな、と思います。

越智小枝Sae Ochi

Profile
東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 主任教授
1974年生まれ。東京医科歯科大学卒。都立墨東病院医長などを経て、インペリアルカレッジ・ロンドンで公衆衛生を学び、東日本大震災を機に被災地の医療と公衆衛生問題に取り組んでいる。

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