原子力産業新聞

福島考

震災以降、医師として福島県浜通り地方に関わり続ける筆者が、地元に密着した視点から記すコラム。

「当たり前」の世界

20 Aug 2020

大災害により人々の不安が増す時期には、大勢に頼ることで自分の立ち位置を安定させたい、という空気が生まれます。それは社会が混乱から回復するための自浄作用なのかもしれません。

しかしその欲求は時に、「大きな声」を「多くの声」より優先し、サイレントマジョリティ(物言わぬ多数派)を生み得ます。自分の住む社会の当たり前が本当はどこにあるのか。その素朴な疑問の声を上げられるためには、時によそ者の空気を読まない一言も必要です。

福島の「物言わぬ多数派」

「原子力発電所事故後の福島では、放射線による直接被害以上に避難などによる間接的な健康被害が大きかった」

今このような発言をしても、多くの人はあまり違和感を覚えないのではないかと思います。では、このことはいつから普通に語れるようになったのでしょうか。

私がこのテーマにつき「福島浜通りの現状:敵は放射線ではない」という記事を書かせていただいたのは、原発事故から3年半が過ぎた20149月のことです。今コメント欄を見てみても、当時こういう記事はほとんど出ていなかったことが分かります。

現場では明らかに起きていることなのに報道されない。その主な理由は、当時、放射能が「相対的に安全」という記事ですら炎上する、という傾向があったためです。実際にこの記事の後、私も「自覚せずに御用学者をやっているエア御用学者」などのコメントをいただきました。

サイレントマジョリティの逆転

しかしその数年後には逆の現象がおきました。復興モードが高まるにつれ、放射能は怖い、という声がむしろ上げづらくなってしまったのです。県外の避難先から帰還された方々は放射能の情報があまり入らない環境にいたため、放射能への不安が強かったようです。

「いろいろ事情があって戻りましたが、放射能はやっぱり怖いです。でもそれを口に出すと、活動家の仲間と思われそうで

2017年頃にはそういう声も聞きました。

「放射線以外だって大変なことが起きている」

「でも放射線も何となく怖いよね」

どちらも、当時多くの方が当たり前に感じたことではないでしょうか。なぜそんなことが日常で口に出せなかったのか。振り返ってみれば不思議な気すらします。しかし有事には、そういう当たり前のことを口に出せない「空気」が作られてしまい、何年もの間続くことすらあるのです。

新型コロナ対策の理想と現実

今般のパンデミックにもこのようなサイレントマジョリティがいると感じています。

先日、保育士さんたちと新型コロナウイルス対策のお話をさせていただく機会がありました。無症状の子どもたちが感染を広げる、などというニュースもある中、お子さんを預かる保育施設の方々は日々重圧を抱えながらお子さんと向き合っています。

しかし、子どもの感染対策には大人以上に正解がありません。子どもは大人と違い、徹底した感染対策は健康や発達に影響を与え得るためです。

「私の施設では室内でのドッチボールや縄跳びが盛んです。盛り上がってくるとつい大きな声で叫んだり、息が上がったりします苦しそうなのでマスクを外させたいのですが飛沫感染などを考えると心配で」

ある保育士さんからはこのような声も聞きました。

たしかにコロナウイルスだけを見れば、お子さんにも三密を避けさせ、消毒を徹底し、距離を開けさせるのが良いのでしょう。しかし、それはそもそも可能なのでしょうか。

たとえば幼稚園のお子さんが、先生に言われたからといってずっとマスクを外さず、周りのものを決して口に入れないなどということができるのでしょうか。あるいは食事の時にしゃべらない、大声を出さない、などと教えることは、子どもの情緒に影響を及ぼさないのでしょうか。さらにそれを守らせようと保育士さんが神経質になることは、保育士さんにとっても、子どもにとっても、感染症以上の悪影響を及ぼさないのでしょうか。

私は子どもには詳しくないので、偏見はあるかもしれません。しかし素人目に見ても、幼稚園や学校で子ども同士の感染を完全に防ぐ、という事には限界があるように思います。

よそ者の一石

毎日お子さんと接している方々の中には、私と同じように

「そこまで徹底するのは無理」

「なんでここまで頑張らなくてはいけないの?」

と考えている方もいるかもしれません。しかし、当事者がそれを口に出せるでしょうか。

「じゃあ子どもが感染したらどう責任を取るのだ」

そういう非難が必ず出てきます。そしてどちらが「正義」かといえば、恐らく後者でしょう。それが分かるからこそ、人であれば当然思ってしまうであろう当たり前のことを口に出せない。災害後の福島と同じような「空気感」が、今の社会には漂っているように思います。

 その空気に風穴を開けられるとすれば、それは現場の人間ではなく、むしろコミュニティの部外者である「専門家」「有識者」というよそ者です。コミュニティと一定距離を保てるよそ者は、万一反感を買ってもそこから逃げることができるからです。

「皆もそう思っている気がするけれども怖くて口に出せない」

そういう硬直した空気に一石を投じることで、コミュニティ内の対話を促すきっかけになるのではないでしょうか。

「檄文」が封じる声

しかしそのようなよそ者・有識者の意見は過激であるべきではありません。檄文調の発信は容易にイデオロギー化し、穏やかに過ごしたい方々の意見をむしろ抑制してしまうからです。福島県内で「放射能が怖い=活動家」のような雰囲気が作られてしまったために、本当に不安な方の声が聞こえづらくなったこともこの現象です。

今、過剰な自粛に反発するように「コロナパーティー」のような活動を時折見かけます。これもまた、鬱憤の溜まった人々の声を代弁しようという活動なのだと思います。しかしこの活動で一番心配なことは、

「過剰な対策に疑問の声を上げることは、ああいう反社会的な人の仲間と見られるのでは」

と、むしろ普通の方が声を上げられなくなってしまうのではないか、ということです。

一人一人の恐怖感が少しずつ違うリスクへの対応は、その妥協ラインを周りの人と丁寧に話し合っていく必要があります。その過程を踏まずに突然「コロナパーティー」のような極端な行動に出ることもまた、コミュニケーションの破綻と言えるでしょう。

極端な断言により更に多くのサイレントマジョリティを生み出さないこと。よそ者はよそ者なりに、その責任感を持つ必要があります。

当たり前のことを、当たり前に言えること

 不安な時には誰でも、正義や正解を頼みたくなります。完璧なコロナ対策という正解、それに反発する人々の正義。しかし本当の日常は、論文の中にも檄文の中にもありません。

「これは正しくないことだけれども、誰でも思ってしまうことでは?」

そのような疑問が湧いた時、それを当たり前に声に出せること。福島では、その当たり前を取り戻すために何年もの歳月がかかりました。“Withコロナ”と呼ばれる世界がその二の轍を踏まないために私たちにできること。それは大きな声の陰にある多くの声を拾いあげるための対話を繰り返すことだと思います。

時には怖がり、時には怠け、時には悪いことも考えるふつうの人間が、メディアに溢れる正義に振り回されずに話し合える日常こそが「新しい生活様式」であれば良いな、と思っています。

越智小枝Sae Ochi

Profile
東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 主任教授
1974年生まれ。東京医科歯科大学卒。都立墨東病院医長などを経て、インペリアルカレッジ・ロンドンで公衆衛生を学び、東日本大震災を機に被災地の医療と公衆衛生問題に取り組んでいる。

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