10年先の未来へ向けて、10年前を振り返る
17 Feb 2021
早いもので、東日本大震災および福島第一原子力発電所事故からもうすぐ10年という月日が経とうとしています。今世の中は新型コロナ一色に明け暮れ、10年も前の災害など回顧する余裕はない、という方も多いかもしれません。しかし目前の危機対応に視野が狭くなってしまう今だからこそ、一旦顔を上げてこの10年間の復興の軌跡を見つめなおすことも大切なのではないでしょうか。
復興のエネルギー
「今がどん底だから、向く方向は上しかないよね」
私が最初に相馬市を訪れた2012年頃の被災地では、しばしばそんな言葉を聞きました。空元気、やせ我慢、と自分たちを笑いつつも前に進むその姿は、開き直った明るさとも言える独特のエネルギーを放っていたと思います。
興味深いのは、そのようなエネルギーを持つことと、性別、年齢、職業などの背景には全く関係がなかったことです。ごみを拾う、放射能を測る、ご飯を作る、編み物をする、しめ縄を編む…多くの活動は斬新でも高度でもなく、自分の手が届く範囲でできる、些細な活動です。しかしそれは、多くの人が忘れかけていた日常を取り戻すための大切な第一歩であったと思います。
復興が始まる場所
大災害の後、本当に困っている多くの方の姿は、ニュースやメディアの中にはありません。災害の後には極端な体験をした少数の人々、声が大きい人、地位の高い人か専門家のみが報道されがちだからです。
被災地で苦しむ多くの方は、極端な不幸もなく、かといって幸せというには遠く、単純な枠にはめられない茫漠とした「非・幸福」を抱えながらも華々しい「復興事業」からとり残されてしまった人々でした。この「物言えぬ多数派」が日常を取り戻すために何ができるのか。今振り返れば、それを模索することこそが復興の始まりだったように思います。
重要なことは、最初に動き出すことのできた方は、誰よりも早くご自身の心の復興も遂げてきた、という点です。それはおそらく、復興という活動が単なる他者への貢献ではなく、
「人は誰でも自分の手でできることがある」
という自信を思い出させてくれる大切なプロセスであるからなのではないでしょうか。
コロナ禍のチャンス
当時、被災地の外では、被災地に貢献できないご自身を責める声も度々聴きました。
「被災地に足を運びたいけれど、家庭や仕事があって何もできない」
「苦しんでいる人がいるのにこんな普通の日常を送っていてよいのだろうか」
九州豪雨災害や熊本・大分地震の際でも、心の中で支援したいと願っていても物理的な距離に阻まれ何もできなかった、という方も多かったと思います。災害時に何かをさせてもらえる、というのはある意味恵まれた経験と言えるのかもしれません。
では、今のコロナ禍はどうでしょうか。国民のほぼ全員が被災した今般のコロナ禍では、度重なる禁止事項の羅列によって社会全体がえも言えぬ暗さに覆われています。でも見方を変えれば、今回の災害は、これまでどこか遠くの「被災地」に居た救うべき人々が、皆さんのすぐ隣にいるということもできるのです。
「ソーシャル・ディスタンス」という言葉の下に人とのつながりを絶たれてしまった結果、多くの方がすぐそばにある「被災地」、すぐそばにいる「被災者」に気づけなくなっているのかもしれません。でも多くの被災地でそうであったように、支援の芽はおそらく全員の手の中にあります。そしてその支援こそが、私たち自身を復興へと導いてくれる原動力なのではないでしょうか。東日本大震災の10年の歴史は、私たちにそのことを思い出させてくれています。
新たなリンゴの苗をもとめて
もちろん東日本大震災とコロナ禍は規模や種類の面で全く異なります。けれども、何かをするという支援、させてあげるという支援が明日へとつながることに変わりない、と私は思っています。
「たとえ明日世界が滅びようとも、私は今日リンゴの苗を植える」
10年前、津波に襲われた後の被災地ではこの言葉が多くの方の口に上りました。10年が経ち、新たな災害に直面している私たちの多くは、今まだコロナの被災地に植えるべきリンゴの苗を見つけられずにいます。これから10年先の未来へ向け、何を植え、どのように踏み出せばよいのか。10年前の震災から現在へと伸びた軌跡をたどることが、その先にある10年を生み出すための一つの糧になればいいな、と思います。