2019年12月26日
2019年8月27日、東京・本駒込にある旧理化学研究所37号館を訪問する機会を得た。同23号館を本部棟として使用している日本アイソトープ協会の敷地内であり、37号館には仁科記念財団が入っている。その2階奥に仁科芳雄先生(以下敬称略)が生前使っておられた研究室(個室の書斎)がそのままに保存されているのだ。近く、この建物が取り壊される運命にあると聞き、財団の小林誠理事長(高エネルギー加速器研究機構 特別栄誉教授)と矢野安重常務理事(理化学研究所仁科加速器研究センター 特別顧問)のお計らいで見学させて戴いた。
仁科博士の書斎にて筆者
仁科は、レントゲンが“新光線”(X線)を発見した1895年に5年先立つ1890年に岡山県に生まれ、1951年に61歳で亡くなられた。 ノーベル賞は20世紀の始まりと歩みをともに創設されたものである(1901年の第1回物理学賞はレントゲンに与えられた)が、令和の御代に入った今日まで、科学・技術に係る分野で、日本はアジアで突出した受賞大国であり、“独占的”の冠をつけてもおかしくない感がある(「パリティ非保存」の発見でノーベル物理学賞を受賞したリー・ヤンの2人は中国生まれであるがアメリカ在住者であったし、佐藤栄作や金大中が受賞した平和賞は除外する)。
昭和・平成の御代における我が国の科学・技術発展の基礎作りに比類なき貢献を果たしたと万人に認められている人物が、旧理化学研究所の“主”を長年務めた仁科芳雄である。
仁科芳雄の生涯については優れた伝記が幾つも書かれており、参照できる資料も多いが、筆者には長年気になっていたことが何点かあった。矢野先生のご案内と詳細なご説明のお蔭で、自分の持つ知識体系は隙間や糸の切れ目がなくなった感じである。以下はその報告である。
放射線研究の先進国だった日本
理化学研究所で仁科芳雄は、世界で第2号となるサイクロトロン(円形加速器)を1937年に完成させた。科学界が鎖国状態に近くなった大戦最中(1943年)には、世界最大のサイクロトロンを作り上げ、そこで製造したradioisotope(放射性同位体RI)をtracer(追跡子)として化学反応や生体反応の機序探索の研究を行っていた。日本は、放射線に係る研究では1945年の敗戦に至るまで世界の先進国であり続けたといってよいのである。
1945年9月、占領軍総司令部(GHQ)は、サイクロトロンを原爆開発用機材と見做し、仁科が作った理研の2台を破壊し東京湾に捨てた。大阪大学の1台と京都大学の1台も大阪湾に廃棄された。
仁科芳雄博士
仁科は腹を立て強く抗議したが受け入れられなかった。尤も、今にして思えば、GHQの判断にも一理あったと言わざるを得ないところがあるのは、仁科が原爆開発のためとして陸軍から膨大な研究費を得、それでサイクロトロンを開発・運転していたからである。当時仁科は周辺に「原爆は作れない」「アメリカでも作れないと思う」と語っていたことが明かされるが、当時は公表されるものではなかった。 この加速器が原爆製造の直接的手段とはならないものであることは、H.C.ケリー博士などGHQ勤務の科学者には理解されたものの原子核物理の実験研究禁止令解除は容易でなく、結局1951年9月のサンフランシスコ講和条約締結を待たねばならなかった。なお法的には、日本が独立を果たしたのは1952年4月(同条約の発効)ということになる。
一方で、アメリカは原爆開発の副産物としてRIの生成・製造の手段を手に入れたので、トルーマン大統領は1947年に世界に向けてRIを販売できると宣言した。サイクロトロンを失いRI生成ができなくなった仁科はGHQの措置の不当さをことあるごとに(強くそして広く)訴え、アメリカが販売を始めたRIの入手を強く望んだのであったが、戦勝国と敗戦国という関係では全く無理な願望であった。
日本にはオカネ(米ドル)がなく、それに換える物品もなく、米政府がいくら認めたとしても“売買”そのものが成り立たないのである。
しかし、仁科の超人的な粘りが遂に功を奏し1947年11月に米政府は日本宛の輸出を認めた。総理府に科学技術行政協議会(STAC)が設置されるなど準備が進み1950年4月10日に第1号のRI が仁科宛に送られてきた。それはオークリッジ国立研究所(ORNL)でつくられたSb-54(1 unit:Al製カプセルに収められた照射試料1個を意味する)で、代金支払いにはアメリカ哲学協会(APS)から寄贈された600ドルが充てられた。1950年には対日復興支援基金から4,000ドルの割り当てを受け、輸入はその後継続的に行われるようになった。残高95ドルとなった1951年にRI輸入は民営事業とすることになり現在の日本アイソトープ協会の前身「日本放射性同位元素協会」が引き継いだのであった。前身の初代会長は仁科が務めたが仁科逝去後は東京大学の茅誠司教授(物理)が引き継いだ。
サイクロトロン発明者であり仁科の盟友であったカリフォルニア大学のE.O.ローレンス教授が、仁科のサイクロトロン再建に尽力されたことはよく知られている。ローレンスの励ましもあり、仁科は通商産業省(当時)から600万円の助成を得て再建に取りかかった。理研第3号と呼ばれるそのサイクロトロンは、1952年12月に完成した。総額1,172万円要したと記録されている。あらかじめ使える機材を保管し、サイクロトロンを製作する用意があったからこその快挙である。
1951年1月に死去した仁科は、同5月に来日したローレンスを迎えることも、3号サイクロトロンの完成を見ることも、またGHQ統治の終了を見届けることも出来なかった。
3号サイクロトロンに使用された電磁石
電磁石はこのサイズ(写真中央は筆者)
経緯の詳細は仁科芳雄記念財団、理科学研究所、日本アイソトープ協会の資料に詳しい。
APSからの寄付金600ドルを使って米国AECから仁科にRIが届けられたのは占領下の1950年のことであった。米国聖公会(英国国教の米国版;上層階級の多くが所属)から立教大学(日本の聖公会大学)に研究原子炉が贈られたのは独立後のことであるが、その準備は占領下の時期に始められたものと思われる。恐らく両者は、仁科の抗議にGHQが反省をし、謝罪の意を込めてワシントン(米政府)に頼んだものであろうと筆者は推測している。
電気工学者から物理学者へ
先の世界大戦時には航空工学科が多くの秀才を集めたが、それ以前の“文明開化・産業立国”時代には電気工学がそうであった。仁科は東京帝国大学で電気を学び、卒業時には恩賜の銀時計を授けられた。首席での卒業ということである。あまたの誘いを断って彼が就職した先は、前年に設立されたばかりの理化学研究所であった。筆者にはその時の経緯というか、仁科の心情が如何なるものであったかが知りたいところであった。
歴史上、電気屋への道を物理屋への道に変えた人の数は少なくはなく、大成した人物も少なくない。ブラ・ケット量子力学や陽電子論で有名なP.ディラック、高等工業高校(旧制・現東京工業大学)で電気を専攻した後東北大で物理を学び本多光太郎に師事した茅誠司(東大卒業でない総長として話題になった)、名古屋大学電気工学科の卒業生で東大理学部物理学科の正教授に就いた梅澤博臣(カナマイシンで有名な梅澤濱夫の末弟)などが挙げられる。
仁科の東大電気工学科における卒業研究の指導教官は鳳秀太郎教授である。電気を学んだ者には「鳳-テブナンの法則」でその名を知らない者は(筆者が学生だった頃には)いなかった。令息誠三郎も東大電気工学科の教授となり、その子息も東大電子工学科で教授となるなど、東大でよく目にする学者一族であるが、実は秀太郎は明治の歌人与謝野晶子の実兄である。
JR駒込駅の近くに在る染井霊園に秀太郎の立派なお墓がある。仁科の卒業研究のテーマは「三相交流と誘導電動機」であった。
理研は主任研究員の制度を取り、研究室毎に全権が与えられていた。そしてその主任研究員は東大教授が併任で詰めていたのである。電気からは鳳秀太郎と鯨井恒太郎の2教授が研究室を持っていた。仁科は鯨井研究室の研究員を希望したのであった。その動機は研究室の研究テーマに「無線電信」が掲げてあったことである。
無線電信は当時の最も魅力あるテーマであった。無線電信を発明したG.マルコーニはW.C.レントゲンに次いでノーベル物理学賞を与えられている。レントゲンがX線を発見した翌年、日本では東京(旧制一高と私立の医学校)と京都(旧制三高)の3か所で間を置かず追試に成功し、明治の開国(明治2年=1869年)から25年であったが、日本の実験物理はその時点で世界のフロンティアに揃い立つものであることを世に知らしめた。
三高での実験技師的存在だった人物が興したのが今の島津製作所である。一高で実験に成功した物理教師はその後アメリカに渡って無線電信の研究に転向した。日露戦争で東郷平八郎がイギリスから買ったオンボロ巡洋艦を旗艦三笠として無敵と言われたバルチック艦隊に勝利できた秘密はその先生が手掛けた装置で無線傍受に成功したことによると筆者は考える。しかし、どういう訳か、司馬遼太郎の「坂の上の雲」には記述がないようである。
理研には原子の長岡モデルで有名な長岡半太郎(東大物理学教授)も主任研究員を務めていた。無線電信に惹かれて理研に入った仁科はその基礎を学ぶ過程で長岡研究室に出入りし次第に研究者として頭角を現し、本郷の長岡研究室にも実質的に大学院生と同等に扱われるようになっていったということであった。
鉄についての逸話
仁科は理研で、世界で2番目となるサイクロトロンをつくり、戦時中の1943年に世界最大のサイクロトロンを作り上げたのであるが、当時の日本産の鉄は品質が低く、サイクロトロンの電磁石には使えないものだった。仁科は日米開戦前に、サイクロトロンを発明したローレンス教授を通して良質の鉄を購入できていたのであった。
日本が原子力の平和利用を決め、最初に購入した商用発電炉はイギリス製のコールダーホール型と呼ばれるものであった。イギリスから届いた鉄に対し、ロイド(イギリスの有名な保険会社)から送り込まれた品質検査技師J.スマイスはOKを出さなかった。そこで急遽、室蘭の日本製鋼所(JSW)の鉄を取り寄せることになったが、当のJSW技師は腰を抜かさんばかりに驚いていたそうだ。何故こんなことを知っているかと言えば、筆者はその頃、政府の原子力留学生に選ばれ、原子力研究所の配慮でスマイス夫人から英会話を習っており、お子さんを持たない夫妻から家族同様に扱って戴いていたのである。1961年夏までの話である。
ついでに言うと、JSWでは戦艦大和や戦艦陸奥の砲身をつくっていた。実験核物理の禁止令解除と原子力の平和利用開始後、低バックグラウンドの遮蔽材に鉄がよく使われるようになったが、溶鉱炉の残存寿命を知るために放射性同位体であるCo-60が壁材に含ませられていた。瀬戸内海に沈没していた戦艦陸奥の船体に使われていた鉄は、もちろんこのCo-60を含んでいない。そのため海中から引き揚げた戦艦陸奥の砲身からつくられた鉄遮蔽材は、高価であったが大学や研究機関には大モテであった。
大日本帝国で最高位とされた機密文書
広島の上空で強力な新型爆弾が炸裂したのは、周知のように、1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分頃のことであった。
物理学者などの間では原子爆弾の可能性が取りざたされていた。政府の要請で仁科が調査のために広島に入ったのは9日だった。日赤病院に残っていた未使用レントゲン写真乾板や電柱の碍子、動物などの骨、といった試料を東京に持ち帰って分析した結果、写真乾板の感光や硫黄・燐の放射化確認から、新型爆弾は原子爆弾であったと10日に報告され、政府は14日にそのことを国民に知らせた──というのが長い間の通説である。
仁科が「新型爆弾」についての考察を記したノート
当時筆者は10歳、国民学校の4年生であった。空襲で焼け出され、青森市郊外の農家の離れに住まわせて戴いていたが、ラジオや新聞で「広島に新爆弾投下」のニュースを知った。新聞に「原子爆弾」の文字を見たのは1週間位後のことだった。日時はよく覚えていないが「ハラコバクダン」と読んだことだけはしっかりと覚えている。
時は流れ、1980年9月20日夜、筑波山中腹の筆者の寓居に、仁科の次男である仁科浩二郎さん(当時名古屋大学原子核工学科助教授)とニールス・ボアのお孫さん(の一人)ヘンリック・ボアが居られた。広島被爆から35年目のことである。当時筆者が奉職していた筑波山麓のKEKにVisiting Scientistとして滞在中であったボア氏から「Nishinaの息子に会いたい」と相談を受け、以前の職場(東海村の原研)で知り合っていた浩二郎先生に名古屋からお出ましを戴いたのであった。写真はその日に書かれたゲストブックの写しとH.ボーアさんの写真である。一緒の女性は私の上の娘である。
この夜の会話、特にボーア3世と仁科2世の間に交わされた会話は実に興味深いものであった。どうして録音しておかなかったのかと今更ながら残念に思うことである。
ボーア3世は「(昭和)天皇が原爆であったと知ったのはいつであったか」とか「終戦(ポツダム宣言受託)を決意したのは何時か」などに深い関心を寄せていた。その時、仁科2世が「父は原子爆弾であったことを相当早くから知っていた」と話されていた。
更に時が流れ、2010年8月9日のことである。朝日新聞デジタルが『「広島に原爆」川越から傍受 通信社分室が政府に報告』というスクープ記事を発表した。戦後時事通信と共同通信に分割された「同盟通信」は、戦時中、海外向けの情報発信と海外放送の傍受を国から特別に許可を得ていたのであるが、埼玉県川越市で「新型爆弾の正体を説明する海外放送」を傍受し政府(東郷茂徳外相・鈴木貫太郎首相=元天皇の侍従)に報告した当事者(杉山市平・武井武夫)が65年を経て真相を明かしたという記事である。しかし、朝日新聞は「これを検証する資料は乏しい」と解説していた。
時は更に流れ、令和元年8月27日、筆者は仁科研究室に秘蔵されていた「敵性情報(昭和20年8月7日)」なる文書に対面することができた。当時の大日本帝国における最高位の機密文書である。19年前、天下の朝日新聞に“資料は乏しい”と言わせ、多分今現在でも、国会図書館を含め、他所ではコピーすら目にすることはできないと思われる貴重な資料である。
因みに、内閣が「四国声明(ポツダム宣言)受託」を閣議決定したのは8月14日夜のことであった。東京JR両国駅の近くの横網町にある、東京都復興記念館に展示してある御名御璽と日付の入った議事録の写しを観てそれを知ったのは、戦後随分経ってからのことであった。
仁科からニールス・ボーア宛の書簡
矢野先生から頂いた標記書簡の写真と英文の書き写しを以下に示す。現物はコペンハーゲンにあるニールス・ボーア記念館(アーカイブ館)に保管されているという。
Bei Frau Norte
Sehillerstr. 49
Goettingen, Germany
25th Mar. 1923
To
Professor N. Bohr
Theoretical Physics Dept.
University of
Copenhagen, Denmark
Dear Sir,
You may remember that I was working
in the Cavendish Laboratory when you came to
Cambridge about a year ago. At that time I
was counting β-rays excited by γ-rays by means
of Geiger’s counter, and had the honour of
speaking to you in the laboratory. .
I left Cambridge last September and
came here for the purpose of learning the
German language.
So I spoke to you in Cambridge, I
have the great desire of studying in Copenhagen
under your guidance, and I should be
greatfully obliged to you if you could accept
me.
As my institute in Tokio does not
allow me to stay in Europe longer than two
more terms, I do not know whether it is
wise tost up new work. My cheap wish
is to study your theory of spectra and atomic
constitution in details. But if any one
wants assistance in the esperiment (sic) or the
calculation, I should esteem it a favour if
you would give me the early information
in the matter.
I beg to remain
Yours faithfully
Y. Nishina
P.S.
I belong to the Institute of Physical and
Chemical Research in Tokio, to which Dr.
Takamine also does as you know.
上記英文は筆者が判読して書き写したものである。文中(ママ)としたのは、おそらく“experiment” から“x”が抜けたものと思われるが、そのままにしておいた。
筆者が予て知りたいと思っていたことの一つは、まだ30歳そこそこで博士号も持って居ない極東の日本人からの「勉強したいから呼んで欲しい」という虫のいい願いに、N.Bohrがどうしていとも簡単に応じたのか、ということであった。
親分の長岡先生から戴いてきた路銀が、WWⅠに敗れ多額の賠償金を要求され大変なインフレに喘ぐドイツで使い果たしてしまったので」とかの泣き言は全くなく、また親分の名声に縋って「長岡の弟子である」名前も出していなかったのに驚き感心した。ケンブリッジで既にお会いしていたこともプラスに働いたのであろうが、礼儀正しく、率直に自分の気持ちをさらけだしたこの書簡を読めば、誰しもその情熱に心を打たれると思った。この英文は、旧式ではあるが、お手本として教科書に載せられてもよい名文であると思う。
手紙の最後に理化学研究所のお仲間“高嶺博士”のこともよろしくと頼んでおられたのに感銘を覚えた。筆者は昔、原研の「原子炉研修所」で教師稼業をしていたことがあるのだが、その時教員室で机を並べていたのがその高嶺博士のご令息(高嶺康夫さん)だった。「親父がボーア先生の所へ勉強に行ったばっかりに我が家は身上(シンショウ)潰してしまった」とこぼしておられたのが耳に残っている。
ともあれ、この手紙を読んだニールス・ボーアは仁科の留学資金獲得に奔走し、結果として仁科はエルステッド財団から5年間の留学資金が得られたのであった。
(日本医師会のドンだった)武見太郎との繋がり
日本アイソトープ協会の近くに日本医師会の本部(会館)がある。正門から見て右手奥の位置になる。東洋文庫の隣、六義園は道路を挟んで反対側に在る。
雪の研究で名を馳せた北大の中谷宇吉郎教授が理化学研究所で研究生活を送っておられたとき健康を損ねられ、その時治療に当たられたのが武見医師であったという。
その時の縁で仁科先生との親交が始まり、仁科研究室の一員として扱われるようになったらしい。仁科先生のガン発症が判明した後主治医として尽力されたことは知られているが、後年浩二郎さんにお聞きしたところ、武見医師の措置は最先端の知見を踏まえたものであったことを知り、感動を覚えたものである。武見太郎は慶応で医学を学び銀座に診療所を持って居るというのが持ち合わせていた情報の全てだったので、医師会長は政治力のある“街医者の親分”というイメージが強かったのである。
仁科の生きざま
大国意識を露骨に振り回す国や自己主張を露骨に振りかざす国など、アジアには様々な国がある。その中で、理系ノーベル賞の授賞に目を向けると、これまでのところ、日本独占である。そしてその恩人と言える人物こそが仁科芳雄なのであった。 世界先進国のフロンティアに立っていた日本が、先の世界大戦に敗れたことで、戦後はゼロからの出直しを迫られた。その時期における仁科の超人的働きが、平成・令和に続くこの国の命運に大きく作用していると痛感するのである。
この度の学びを通し、仁科芳雄の“生きざま”は、以下にその特質が認められた。
- 【1】 良い意味での“ヒトタラシ”であったこと
- 理化学研究所に入所した後の長岡半太郎研究室への弟子入り、ゲッチンゲンから手紙を書いて実現したデンマークのボーア研究所での5年間の留学、等
- 【2】 広範な交遊関係
- 1と裏腹というか1の結果ともいえるが、物理だけに留まらない基礎科学(化学・生物学・等)基礎科学界、医学界、薬学界、ビッグサイエンスの進展を支える産業界、行政・渉外での知遇を得た者や姻親戚者、等々
- 【3】科学・技術発展への情熱
- 米国が原爆開発に成功した翌年(1946年)に物理学者H. D. Smythの手による原爆開発の公式報告書「原子爆弾の完成」がPrinceton大学から刊行され、1951年に岩波がその翻訳を出版した。監修を務めた仁科が序文に認めたのは、科学・技術の発展に寄せる情熱の吐露以外の何物でもない。原子力の開発は二十世紀後半における、科学技術(ママ)の最大の所産であるといって差し支えない。それは、物理、化学、工学はもとより数学、生物学、医学など科学をすべて注入した結果であり、さらにアメリカの経済力、産業力、さらに政治力をも結集して出来上がった人類能力の結晶というべきである。日本にとっての本当の終戦(独立)前年のことであり、仁科はその年の初めに他界した。原子力の非平和利用のみならず原子力による電力生産にもnegativeな意見が勢いを増している今日では、このような感想は述べにくいものとなっているが、人類が今後数百年以上生き延びたとするなら、将来においても必ずや、高い評価を得るものと確信する。
- 【4】経営能力
- 研究室の運営は企業の経営と似ている。高い志を持って人望に優れ、鋭く深い洞察力と胆力を必要とするからである。予算要求や資金調達には関係者の理解を得やすいものを掲げ、その使用には目的達成・事業推進にとっての重要性を考えるという伝統、ある意味での“今日的常識”は、仁科に始まったものとも見える。
GHQが旧理研を強力なコンツエルンと見做し“財閥解体”の対象に含めたため、仁科は「株式会社科学研究所」に改組して所員や家族の生活を支えた。一般国民に馴染みのビタミンや、放射線を生業とする者に馴染みのポケット線量計などの生産に加え、当時の平均寿命を40年そこそこに追い込んでいた感染症対策に注力し、ぺニシリンや結核治療薬ストレプトマイシンの画期的生産法を生み出して“稼ぎ頭”に育てた力量は、特筆されるべきものである。
編集:石井敬之
写真:山田敬