原子力産業新聞

処理済み水の海洋放出問題が象徴する
政府の本気度と外交力

18 Nov 2021

菅義偉前内閣は384日間の短命政権だった。昨年828日、安倍晋三首相(当時)による突如の辞任表明を受け、自民党総裁選挙が行われた際、菅前首相が勝利した理由は官房長官として新型コロナ対策の一翼の担ってきた実績に対する評価だろう。衆議院の任期満了まで残り1年となるなか、新型コロナを早期に収束させ、経済活動の再開を図ることは自民党にとって最優先課題だった。しかしながら、この点において菅政権は必ずしも十分な実務能力を示したとは言えない。だからこそ、菅前首相は自民党総裁選への立候補見送りに追い込まれたのではないか。

もっとも、菅前首相が短い任期中にいくつかの重要な決断をしたことも事実だ。その1つが東京電力福島第一原子力発電所に貯蔵される「処理済み水」に関し、今年413日の関係閣僚会議で海洋放出を決めたことである。原子力発電に賛成か否かに関わらず、この判断は高く評価されるべきだろう。処理済み水の貯蔵は物理的な限界に近く、且つ純粋に科学的見地から見れば、希釈した上での海洋放出が最も安全で現実的な対応だからだ。

もっとも、風評被害に対する懸念は残る。これに対して、菅前首相が「福島をはじめ被災地の皆様、漁業者の方々が風評被害の懸念を持たれていることを真摯に受け止め、政府全体が一丸となって懸念を払拭し、説明を尽くして行く」と語ったことが伝えられた。それは、当然、岸田文雄内閣にも受け継がれるだろう。特に国際社会に対する正確な情報開示が極めて重要なのではないか。国際原子力機関(IAEA)による調査団の受け入れなどを通じ、周辺国に対して丁寧に説明する必要があることは言うまでもない。

ただし、それでも科学的とは言えない理屈で批判がある場合、政府には毅然とした対応が期待される。この件の政治利用を許せば、他の問題にも影響が及ぶことは明らかだ。

例えば東京オリンピック・パラリンピックの際、メダリストに贈呈されるブーケに関して、韓国紙『国民日報』は「放射能への懸念が少なからずあるのが事実」と報じた。このブーケが宮城県産のヒマワリ、岩手県産のリンドウ、東京産のハラン、そして福島県産のトルコギキョウとナルコランで作られていたからだろう。全く事実無根の報道だが、実際に処理済み水の海洋放出が開始された場合、同国ではさらに過激な反応が予想される。

それを看過できないのは、単に二国間の関係だけでなく、他国を巻き込む可能性があるからだ。韓国の場合、戦時中のいわゆる従軍慰安婦、徴用工の方々のケースにおいて、直接的な関係のない米国やドイツにまで問題を飛び火させた。それを考えれば、海洋放出前にしっかりと準備し、科学に基づく丁寧な説明を続けた上で、根拠のない中傷には明確な反論を相手が音を上げるまで繰り返す必要がある。悪意を持つ人々は、この件を通じて国際社会における日本への評価を貶めようと意図している可能性が否定できないからだ。

 

物理的な貯蔵の限界に近い処理済み水

原子力に関わる方に対しては今更の感もあるが、原子力発電所は正常に稼働している時でも水の管理が極めて重要である。現在、世界的に広く使われている軽水炉の場合、沸騰水型(BWR)、加圧水型(PWR)の何れにも「水」の文字があるように、タービンを回す際や原子炉の冷却に水(水蒸気)が使われてきた。従って、日本の全ての原子力発電所は取水を考慮して海沿いに立地している。

福島第一の事故の際、東日本を襲った大震災そのもので原子炉建屋が大きく損壊することはなかった。稼働していた123号機は巨大地震を感知して自動停止している。しかし、津波によって取水用のポンプが故障、原子炉を冷却するための水を供給できずに深刻な事態に陥った。

原子力発電所の地下には地下水が流れており、雨が降れば雨水も所内の地面に染み込む。正常な稼働時においても、これらの水の漏出により管理区域外が放射性物質に汚染されないよう、日々、コントロールしなければならない。事故後の福島第一においては、14号機に核燃料がデブリとして残っており、水による冷却を継続する必要がある。さらに、原子炉建屋内に流入した地下水、雨水が炉の破損により高濃度の汚染水となるが、これも所外への漏出を絶対に止めなければならない。

そこで大きく分けて2つの手が採られた。1つは、原子炉建屋への地下水・雨水の流入を食い止めることだ。地中に凍土壁を設けることや、山側にバイパスを作って建屋の下を通らずに地下水を海へ放出するなどにより、1日の汚染水発生量は当初の平均540㎥から2020年は135㎥へ抑制された。もう1つの手段が、多核種除去設備(ALPS: Advanced Liquid Processing System)の活用に他ならない。高濃度汚染水にはセシウム、ストロンチウムなど63核種の放射性物質が含まれているが、ALPSはこのうちの62核種をほぼ取り除くことが可能だ。その上で、最後に残ったトリチウムを含む「処理済み水」を発電所内に設けられたタンクに貯蔵してきた。

東京電力によれば、1021日現在、所内の処理済み水用タンクは全体で1,061基、うちALPSによる処理済み水用が1,020基であり、1267千㎥のトリチウム水が貯蔵されている。既に福島第一の敷地内を埋め尽くすように1368千㎡分のタンクの設置が終了した(図表1)。これ以上のタンクの建設が困難になる一方、1日当たり新たに150㎥の処理済み水を貯蔵しなければならず、2022年夏にも貯蔵能力は限界に達する可能性が強い。

従って、最終処理へ向けた決断の先送りは許されない状況に至った。具体的な放出方法の検討、国際機関や周辺国への説明と調整、さらに地元への対策の期間を考えれば、菅前首相の判断は正にぎりぎりのタイミングだったと言えるのではないか。

 

科学的問題ではなく社会的問題

トリチウム水(=処理済み水)は、通常、稼働中の原子力発電所から海洋へ排出されている。福島第一の場合、事故前、稼働状態におけるトリチウムの海洋放出は規制濃度が6Bq/、年間の放出総量に関する管理目標は22Bq/年と決められていた。このレベルであれば、環境には何らの影響を与えないと科学的に証明されているからだ。もっとも、福島第一の実際のトリチウム放出量は20062010年度の平均で2.0兆Bq/年であり、管理目標を大きく下回る水準だった(図表2)。

ちなみに、201710月、韓国原子力安全委員会は『使用済み燃料管理及び核廃棄物安全管理に関する共同会議の下での第6次報告書』を発表している。それによれば、201216年において韓国の4原子力発電所が海洋及び大気中に放出したトリチウムの量は、いずれも正常に稼働していた時期の福島第一を遥かに超えていた(図表3)。例えば、この間に6基の原子炉が稼働していたハンウル原子力発電所の場合、海洋放出されたトリチウムは平均50.9兆Bq/年だ。

福島第一の25倍を超えるトリチウムの量だが、同報告書はその放出量を特に問題視してはいない。科学的見地から、環境に悪影響を及ぼす可能性はないと判断したからだろう。麻生太郎副総理(当時)は、菅内閣の関係閣僚会議が海洋放出を決めた際、会見において「科学的根拠に基づいてもっと早くやったらと思っていた」、「中国や韓国(の原子力発電所)が海洋に放出しているもの以下だ」と語っている。何かと発言が物議を醸すことの多い麻生氏だが、この時は全く正しい見解を示していたのではないか。

福島第一の処理済み水に関する最終的な処分について、資源エネルギー庁多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会は、昨年210日に発表した『報告書』により、「社会的影響は大きい」としつつも、「海洋放出」、「水蒸気放出」を「現実的な選択肢」とした。この結論は、同年42日に公表されたIAEAによる『フォローアップレビュー報告書』において、「包括的・科学的に健全な分析に基づいており、必要な技術的・非技術的及び安全性の側面について検討されている」と評価されている。

また、原子力規制委員会の更田豊志委員長は、2018822日の会見において、「規制を満たす形での(トリチウム水の)放出である限り、環境への影響、健康への影響などは考えられない」と説明した。この時、同委員長は、記者による「希釈することによって、総和を考慮した上で法令濃度、法令基準を下回れば、規制委員会としては海洋放出については是とするということで良いか」との質問に対し、「おっしゃる通り」と回答している。

そうした議論を踏まえて、福島第一の処理済み水の海洋放出は検討されてきたわけだ。今年712日、東京電力が特定原子力施設監視・評価検討会に提出した資料によれば、貯蔵されている処理済み水のトリチウム濃度は15216Bq/ℓ、平均62Bq/ℓだ。現在の計画では、これを1,500Bq/ℓ未満に希釈した上で、年間放出量が22兆Bqを下回る水準にする。事故前の福島第一におけるトリチウム水の規制放出濃度の2.5%であり、年間放出総量の上限は稼働時と同水準に設定されているわけだ。麻生前副総理の指摘通り、現在運転を続けている韓国の原子力発電所と比較しても、強く環境に配慮した計画と言えるのではないか。

日本国内だけでなく、IAEA、韓国原子力安全委員会を含む専門家の議論を見る限り、トリチウムを含む処理済み水の海洋放出は、厳格な管理の下で行われた場合、環境への被害は基本的にないと考えられる。つまり、福島第一敷地内のタンクに貯蔵された処理済み水の処分は、科学的な問題なのではなく、優れて政治・経済及び社会的な課題に他ならない。言い換えれば、菅前首相が指摘したように風評被害のリスクに尽きるのである。

 

異を唱える隣国の理解を得ることが喫緊の課題

福島第一の事故後、55か国・地域が福島県など日本産食品の輸入を規制した。しかし、多くの国・地域が既にそうした規制を撤廃している。輸入を制限してきた米国も、今年922日、食品医薬品局(FDA)が撤廃を決めた。EU、英国、インドネシア、仏領ポリネシアは規制を残しているものの、放射性物質検査証明などを提出すれば、輸入が禁じられているわけではない。一方、福島県及び周辺県からの食品輸入停止措置を続けているのは香港、マカオを含む中国、台湾、そして韓国の3か国・地域だ。

2015年、韓国による8県の水産物禁輸措置に関し、日本政府はWTOへ提訴した。20182月、第一審に当たるパネルは輸出規制を不当としたが、2019411日、最終審に当たる上級委員会は実質的に韓国側の主張を認める判断を示している。この逆転敗訴は油断と過信による日本の外交政策の失敗であり、当然ながら関係する農業・漁業関係者を強く落胆させた。さらに、処理済み水の最終処分にも大きく影響したと言えるだろう。

今年412日、韓国外務省は、菅政権による処理済み水の海洋放出決定を翌日に控え、「韓国国民の安全と周辺環境に直接、間接的に影響を及ぼし得る」として、日本政府を強く牽制した。この主張に十分な科学的根拠があるとは思えないが、WTOの敗訴により一定の説得力がもたらされた感は否めない。

その3日前の49日には、中国外務省の趙立堅副報道局長が、記者会見の席上、福島第一の処理済み水の海洋放出に関し「積極的、タイムリー、且つ正確、透明な方法で情報を開示し、周辺国と十分に協議のうえで慎重に決めるべきだ」と語っている。米中関係の緊張感が高まるなか、中国の対日姿勢は厳しさを増しており、処理済み水に対する反応もその同心円上のあると考えるべきだろう。

他方、先述のIAEAによるフォローアップレビューには、処理済み水の処分に関し、「安全性を考慮しつつ、全てのステークホルダーの関与を得ながら、喫緊に決定すべき」とあった。処理済み水の貯蔵量が増えれば増えるほど、日々の管理と出口戦略は難しくなる。結果として、国際基準を超える濃度のトリチウム水が福島第一の敷地外へ漏出するリスクが高まりかねない。そうしたリスクを軽減する唯一の道は、徹底した管理と情報開示の下で処理済み水を海洋放出することである。

1022日に閣議決定された『第6次エネルギー基本計画(エネ基)』は、第1章を「東京電力福島第一原子力発電所事故後10年の歩み」に充てた。そこには、処理済み水の問題について、関係閣僚会議を設けた上で「風評対策や将来へ向けた事業者支援、迅速かつ適切な賠償の実現などに、政府一丸となって取り組む」とある。

書かれていることに違和感はない。もっとも、この件は極めて重大な時期を迎えている。そうした状況下、あまりにも表現が整然かつ淡々としており、淡泊に過ぎる印象を拭えない。今も福島県産などの食品の輸入を禁止している国・地域に対し、最大限の外交努力により輸入解禁への理解を得ることについて、より明確で具体的な施策が書かれるべきだったと思う。また、処理済み水の海洋放出に懸念を示す国へのアプローチについても、もっと踏み込んだ外交方針を示す必要があったのではないか。そうした政府の取り組みと経済的支援をセットにしなければ、処理済み水の海洋放出に関し地元の理解を得ることは難しいだろう。

新たなエネ基の『はじめに』には、「10年前の未曽有の大災害は、エネルギー政策を進める上でのすべての原点であり、今なお避難生活を強いられている被災者の方々の心の痛みにしっかりと向き合い、最後まで福島復興に取り組んでいくことが政府の責務である」と書かれている。そうであるならば、まずは科学的根拠に基づかない輸入規制を続け、処理済み水の海洋放出を批判する隣国に対し、しっかりと日本の主張を受け入れてもらうことが重要だ。

福島第一の廃炉作業を円滑に進めるためにも、処理済み水に関する決着は避けて通れない。第2次安倍政権において外務大臣を48か月務めた岸田首相には、この件での強いリーダーシップを望みたい。

市川眞一  Shinichi Ichikawa

株式会社ストラテジック・アソシエイツ・ジャパン 代表取締役
1963年東京都出身 明治大学卒。投資信託会社でファンドマネージャーなどを経て、1994年にクレディ・リヨネ証券にて調査部長兼ストラテジスト。2000年12月、クレディ・スイス・ファースト・ボストン証券(現クレディ・スイス証券)にてチーフ・ストラテジスト、2010年よりクレディ・スイス証券チーフ・マーケット・ストラテジスト。この間、小泉純一郎内閣にて初代の構造改革特区評価委員、民主党政権下で規制・制度改革推進委員会委員、行政刷新会議事業仕分け評価者(仕分け人)など公職を多数歴任。テレビ東京の「ワールド・ビジネス・サテライト」への出演で、お茶の間でも有名。
2019年9月、個人事務所として株式会社ストラテジック・アソシエイツ・ジャパンを設立した。

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