[原子力産業新聞] 1999年11月25日 第2014号 <2面> |
[ひゅうまんかうんた] 日本原子力研究所顧問(前理事長) 吉川允二さん米国核融合財団からFPA賞を受賞去る10月、米国核融合財団(FPA)から核融合の研究開発に顕著な貢献を行ったとしてFPA賞を受賞した。日本人では伏見康治氏、関口忠氏、森茂氏、大河千博氏に次いで5人目だそうだ。 「この年になると、他の人がどう評価してくれるか気になるところだが本当に嬉しい。これはJT-60に関わったグループ全体として評価されたものと思っている。 核融合との関わりは大学院修士課程の時。1957年頃というから我が国核融合開発の黎明期だ。大学で博士号をとり、63年には当時研究の最先端を走っていた米国ジェネラル・アトミック社に招かれ渡米、基礎実験に明け暮れる。世界のいろんな所を渡り歩こうと思っていたのだが、JT-60クラスの装置を中核とする第2段階の核融合研究開発基本計画(75年策定)に参加しろということで帰国し、39歳でJT-60の開発リーダーとなった。 現在、世界のトカマク型核融合研究は国際熱核融合実験炉(ITER)計画を中心に国際協力で進んでいる。92年からスタートした工学設計活動(EDA)では共同議長を長年務めてきた。「文化も違うし物の考え方も違う。緊張関係が絶えずあったが、それが良い意味で刺激になり、プロジェクトはうまくいったと思う」と振リ返る。 ITERは当初、100万キロワット級のものが計画されていたが、約1兆円の建設費をもっと下げようということで、原研が提案した60万キロワット級程度の小型化ITERが採用される見通しだ。これから1年で恐らくEUか日本のどちからに建設するかが決まる。 「世界でも稀に見るプロジェクト。国際的にも注目される。その建設が日本で行われることになれば、その実績やトラブル等の経験、技術が残り、技術を定着させることができる。無資源国である日本にとって将来の核融合エネルギーを自らのものにするためにも、そのメリットは計リ知れない。立地国となるためには産官学が一致してサポートしていくことが大切だ」と訴える。 「新しいものが生まれ、いずれそれが古いものにとって変わっていく。それが進歩でもある」と考えている。その意味で新しい学問である核融合にめぐリ合い、半生をかけて携わってきたことを「幸運だった」と語る。第一線を退いたというが、核融合にかける情熱は些かも衰えてはいない。66歳。 (み)
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