[原子力産業新聞] 1999年12月16日 第2017号 <6面> |
NEI-insight1000年紀の回顧、原子力産業界をスタートさせた立役者1953年1月のことである。核物理学者で法律家のジョージ・ノリスは苛立たしい思いを抱いていた。彼は、米国が原子力と呼ばれるまったく新しい技術を発電に利用できるかもしれないという可能性を見つめる一方で、連邦政府がこのまったく新しい分野を完全に管理していたことから、そうした努力が失速する可能性もまた理解していたのである。 ノリスは、この活力に満ちた原子力計画にとって何が構造的な障害になるかということを述べた31頁の法律に関する覚え書きを添えて議員に書簡を送った。その議員は、偶然にも、今はもう存在しない原子力両院協議会の委員長を務めていたスターリング・コール(共和党、ニューヨーク州選出)であった。ノリスは、今にも興ろうとしている産業の手助けをしながら、彼の二つ分野の専門家としての知識を活かそうとの希望を抱いた。6か月後、彼は両院協議会の顧問としてワシントンDCに向かっていた。 1年後、議会で1954年の原子力法が成立したが、この法律は、プラント施設の民間所有を認め、商業目的の原子力開発の道を開くことになった。 原子力産業の立役名コールと両院協議会の副委員長を務めたブルケ・ヒッケンルーパー上院議員(共和党、アイオワ州選出)は原子力法の聡明な父であると考えられているが、ノリスこそ本当の立役者であった。 原子力法の45周年にあたり、「原子力エネルギー・インサイト」では、原子力法を実際に作り上げたノリスに話を聞いた。 ノリスは、最初は彼の雇い主であるニュークリア・デベロップメント・アソシエイツの社長向けに作成した覚え書きが新しい法律の雛形になったと語った。彼は法案作成と同時に、そのコピーを机に保管していたほか、1934年連邦通信法のコピーもとっており、それらをおもむろに机から引き出した。 ノリスは、「私はジェームズ・ニューマンの『原子力の管理−社会的、経済的、政治的な意味合いについての研究』と題する1冊の本をいまだに持っている」と語った。1946年原子力法の作成にかかわった一人であるニューマンは、あらゆる原子力技術や施設、物質、情報について、政府の代理の裏方として決定的に重要な役割を果たした。ノリスは、民間企業を原子力開発に参加させるために両院協議会の場で多くの時間を費やした。ノリスは、「私が案をつくり、コールとヒッケンルーパーはこの案を受け入れた。私達は、テーブルを囲み、1行ずつ吟味した。両院協議会のメンバーは全体として知識が非常に豊富だったが、コールとヒッケンルーパーは法案の細部まですべて知っていた」と述べている。 民間企業を原子力開発に参加させるという考えをもっていたのはノリスだけではなかった。コールとヒッケンルーパーも、原子力産業界が政府予算に依存していることに我慢がならなかった。アイゼンハワー政権も、政府支出の削減を強く主張していた。法案作成者の1人が言うように、民間企業の問題についてのノリスの「ほとんど教条主義」とも言うべきものが一緒になり、経済的な競争力に価値を置いた法律の作成に段階が移った。ノリスにとっては、原子力に投資する企業が将来の収入源や資本を将来引き付けるにあたってのテコとなるような特許権を取得することを意味していた。 問題の特許権一般的な慣行は、特許を受けた発明が政府の資金によるプログラムから得られたものである場合には、何年間かにわたって政府に強制的な許認可権を与えるというものであった。さもなければ、原子力研究にすでに関与している企業がすでに市場を独占していたであろう。 しかし、ノリスの論理もはっきりしていた。つまり、投資家が新しい発見による利益を受ける見通しがほとんどない場合には、小さな企業は、研究開発のための投資資金を調達することはできないであろうというものである。この問題については、政党の意見は分かれた。共和党はノリスの考えを支持する傾向にあったが、民主党は強制的な許認可を支持する傾向にあった。 ノリスは、「とくにスターリング・コールは、産業界全体にわたって通常の特許権を要求するという私の立場を支持したが、問題は一筋縄ではいかず議論になった」と語っている。ノリス、コール、ヒッケンルーパーの3人は、反対意見を押えるための努力の一環として、法律の中に原子力の独占を阻止することをねらった独占禁止規定を盛り込んだ。民主党が過半数を押えていた1954年には、この独占禁止規定は残っていたが、特許の強制的な許認可はノリスの主張していたものに代えられた。法律では、5年以内に特許の問題を再考することを要求していたが、民主党は検討を行わなかった。 保険による補償またノリスは、民間企業としては、原子力への投資にあたって、事故が起こった場合の投資を保護するために、保険による補償を必要とするだろうとの確信を持っていた。1957年、両院協議会副委員長のクリントン・アンダーソン上院議員(民主党、ニューメキシコ州選出)とメルビン・プライス下院議員(民主党、イリノイ州選出)、そしてノリスの3人は、プライス・アンダーソン法の原案を作成した。この法律は、認可取得者とサプライヤーに対し、民間の市場が利用できる5億ドルを超える保険を補償していた。 ノリスは5年後、コールとニューヨークの民間法律事務所に入ったが、まもなく、下院軍事委員会の海軍力小委員会の顧問としてワシントンに戻っている。そこでは海軍の原子力化が進行しており、ノリスは再度、二つの分野の専門家としての知識を活かすことができたのだ。 現在はフロリダに引退しているノリスは、海軍の原子力の父として知られているハイマン・リコーバー提督とたまに話しをすることを楽しみにしている。彼は、笑いながら、ある土曜日の朝早くに電話があったことを話した。「今日は米国のために何をやったんだ」と、リコーバーだとすぐわかる声がした。 彼がこれまでに成し得た偉業にもかかわらず、ノリスはあまりにも謙虚だったのでそのことが言えなかったのではないかと思われている。
Copyright (C) 1999 JAPAN ATOMIC INDUSTRIAL FORUM,INC. All rights Reserved.
|