[原子力産業新聞] 2000年7月6日 第2045号 <2面>

[ひゅうまんかうんた] 原子力安全委員会 委員 須田信英氏

 使い方や動かし方が設計した時に決まり、発電にしか利用できない商業炉と比べ、臨界事故を起こしたJCOの燃料加工施設は「基本的に容器と配管とをつなげた構造で、実際様々な使い方があり得る」と語る。この「自由度」の違いを突き、「ここに今回の事故の遠因があるのでは」。長く研究してきた「制御工学」の眼でみた見解だ。

 今年4月、来年の内閣府移行に先んじて原子力安全委の事務局が、独立性の早期確立を目指し、科技庁から総理府に移管。それから数日をおいて、臨界事故でその終息にも当たった住田健二氏を継いで就任した。安全委の一層の機能強化を図るべく置かれることになった専門スタッフ「技術参与」たちに、「原子力に関する総合的な『安全目標』の策定にも貢献して欲しい」と期待する。新たに取り組む安全規制の体系化についても、「今までなかなか掛け声だけで前へ進まなかった議論も着実に進めていきたい」と意欲を示す。

 わが国の原子力の黎明期に原研に9年在職した。その後、阪大に移り制御工学の分野に傾注し、原子力の安全審査に係わるようになるまでの約30年間、直接は原子力開発に携わっていなかった。それ故、ずっと原子力の第一線にあった人よりは、「少し距離を置いて安全確保を見ていく」ことに自らの役割を認識しているというが、「それでも以前原研で取り組んでいた研究が、安全委での原子炉安全審査で議論になることがあった」とも。

 安全委では既に各種会合の公開だけでなく、その取りまとめについての意見公募を行うなど、情報公開・透明性向上に努めている。「もんじゅ」事故調査に携わった際、多くの国民の意見を受けて報告書への修文を施した経験などから、「一般の人々が読んでも誤解のない、わかりやすい報告書ができるようになれば、成果があったといえるのだが」と語る。

 今年3月、法政大学を退職。三鷹の自宅から小金井キャンパスまでの「職住近接」の生活に別れを告げ、仕事場へ向かう路線も都心方面へと向きを変え乗車時間も長くなった最近は、始発電車に空席を見つけゆっくり読書を楽しむという。全20巻ほどもある文学全集も間もなく読破されようとしており、今は永井荷風の作品に凝っているとか。

 56年東大工学部卒、三菱重工入社、57年原研、75年阪大教授、80年京大教授、96年法大教授、阪大名誉教授、97年計測自動制御学会長、今年4月より原子力安全委員。


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