[原子力産業新聞] 2000年9月28日 第2056号 <4・5面>

[特集] JCO臨界事故から1年

2面所報の通り、原子力関係者が決して忘れてはならない JCO 臨界事故から1年。原子力に携わる関係書がみずからの問題として安全の意味を厳しく見詰め直す1年ともなった。この間、原子力防災法の成立など、国の規制対応が進み、事業者レベルで安全ネットワークの強化が図られている。そこで、前原子力安全委員会委員長代理の住田大阪大名誉教授、事故後発足した NS ネットの梅津事務局長、放射線医学総合研究所の佐々木所長、日刊工業新聞の北岸編集委員の4氏に JCO 事故を踏まえた安全確保とその課題等について語ってもらった。


梅津NSネット事務局長に聞く

臨界事故を教訓に「日本版 WAN0 」として、原子燃料サイクル関連事業者が安全文化を共有し原子力安全の確保を図る目的で、昨年12月に発足した「ニュークリアセイフティーネットワーク ( NS ネット) 」。

会員の事業所を相互評価 (ピアレビュー) することで安全性向上への課題の摘出と良好事例の水平展開を実施中だ。ピアレビューを中心として NS ネットの活動について、梅津皙理事・事務局長に語を聞いた。

−ピアレビューの実施状況は。

梅津事務局長
4月に東海村の三菱原子燃料に対して第1回目を実施したのを皮切りに、これまで5か所の核燃料加工事業者で行ってきた。きっかけとなった臨界事故の発生したのがウラン加工事業者だったことから、まず燃料加工施設を対象とすることにしたが、ひととおり加工事業者でのレビューが終了したので、10月からは原子力発電施設を対象に実施していく。東京電力福島第一原子力発電所が最初となる。

現在まで、対象となった事業所はいずれも、ピアレビューの趣旨を理解していただき、たいへん協力的であった。WANO の場合とは違い、4日間という短期間だが、効率的に行われている。日数が短いので夜も遅くまで仕事をすることが多いが、快く協力していただいている。レビューチームを受け入れた会員からは「これまでこうした外部との接触が少なく、自分たちが「井の中の蛙」であったことがわかった」「自社の安全面の取組みを体系的に整理する良い機会であった」などのコメントをいただいている。

心配された商業機密等の情報管理に対しては、安全という観点からの評価においては、これまで問題となる事項は特になかった。いずれにしても、ピアレビューに対しては、各社とも経営者を中心に真剣に対応していただいており、「原子力安全」を第一にとらえる姿勢がうかがえる。

ピアレビューの方法については今後も改善を図っていきたい。先般、原子力安全委員の方から、会員事業者だけでなく協力企業の社員にも安全意識を高めてもらうことが必要との指摘をいただいた。今後は、現場での協力会社のデータを把握し、安全性向上につなげられるよう積極的に取り組んでいきたいし、海外に好事例があれば参考にしたいとも考えている。

我々のように事業者が相互評価をすることで、産業全体の安全性を高めていくという取組みが、化学産業においても世界で45か国が加盟して行われていることを、最近知った。潜在的にリスクを抱える産業では、一社の大きな事故が極めて産業全体に深刻な影響を及ぼすことは明らかなので、こうした努力はどのような産業であれ非常に重要である。

−その他の活動については。

梅津事務局長
安全文化普及活動として、事業所を会員の専門家が訪問し、安全講演会等を行う「安全キャラバン」、経営陣、事業所長レベルの方を対象に行う「トップセミナー」、現場の部課長レベルを対象とした「管理者セミナー」等を実施している。4月に開催したトップセミナーで講演をお願いした吉川弘之日本学術会議会長が「ひとつの技術産業が成熟するにつれ、初期の頃とは違う視点での技術管理が必要となる」と指摘していたが、NS ネットの活動はこの点で、原子力産業をさらに高度化するためのひとつの手法となりうるのではないか。

− NS ネットの活動を知らない国民も多いのでは。

梅津事務局長
我々の活動に関して、広く国民一般にも知ってもらいたいと考えている。そうすれば、原子力全体に対して「安心」してもらえることにもつながるのではないか。効果的な広報の仕方についても検討したい。

また、評議員会からは、NS ネットの活動が仲間うちの活動だけに陥らないようにすることや、透明性や一般の人への分かりやすさを高めるよう努力する必要性について意見をいただいている。真摯に取り組んでいきたい。


あってはならない臨界事故に思う

日刊工業新聞編集委員 北岸達郎

昨年の9月30日に発生した茨城県東海村での JCO 燃料加工工場の臨界事故には驚いた。信じられないと同時になぜだ、原因は、被害は、と心配した。

原子力の事故では、核燃料サイクル開発機構の高速増殖原型炉「もんじゅ」の二次系冷却材ナトリウムの漏えい・火災事故、同再処理工場アスファルト固化処理施設の火災爆発事故や輸送容器のデータ改ざん問題にも接した、そこで感じたのは、当事者の安全に対する過信や事故処理の甘さ。それに加えて、JCO の事故は従業員の教育、知識の必要性、企業自らが安全を確保できるのかという疑問などだ。

「もんじゅ」の事故は設計の甘さの問題。技術者の過信が事故に結びついたと言っても良い。

この「もんじゅ」の事故がおさまりはじめたころ、再処理工場のトップとの懇談の機会に恵まれ、事故の問題や体制の話をした。その時にトップは「事故などは絶対におこりません。いやおこしません」と胸をたたいた。この余韻が残っているうらにアスファルト固化処理施設の火災爆発事故が発生した。トップの自信はなんであったのかという思いと事故の教訓は生かされない体質にも問題があると感じた。とくに現場と管理者とのギャップはその後の原子力事件・事故で明瞭になり、開発当時の思想が受け継がれていないことや携わっている技術ポイントを知らないというように技術の伝承が行われていないことも痛感した。こうした事態は産業全体の課題ともみえはじめた。動燃改革検討委員会の座長をつとめた吉川弘之氏はこうした現象を「日本病」としていたがもっともだとも実感した。

こうした病気の事態となった背景には、世代交代がうまくいっていないことや効率化を求めすぎる体質、原子力に対する不信や不満が産業活動を停滞させてきたなどの要因があろうが、おかしな事だし異常なことだ。

JCO 燃料加工工場の臨界事故は、事故の分析が進むにしたがってこうした状況のなかで発生した事が歴然となっていった。トップが事業を知らない。現場を一部の人にまかせたままで作業日誌もいいかげん。現場が問題とし改良・改善を求めても改善できない。社員の教育が徹底していないなど企業として体裁をなしていない状況も明らかとなった。製品の量が少ないことや特注品という課題を考慮しても問題が多すぎた。

原子力の安全は一義的には企業が責任を持って実施することにあるが、まかせておけるのだろうか。特殊なケースと考えて良いのだろうかという疑問がわく。とくに、雪印乳業や三菱自動車工業の事故や事件が続く今日では捨てきれない。

JCO の事故は、さらに引き起こしてはならない臨界をともなった。臨界事故はその原子力の恐ろしさをしめした。住民が怒るのは当然のことで、こうした危険性を内在した原子力施設を排除しようとするのは正当な判断だ。マニュアル違反をして、安全審査に無いルートで製品を作っていたといっても納得のしようがない。安全協定を結んでも安心できないと怒るのをとめることもできない。

また、マニュアル違反をしても臨界事故につながらない保証が必要。その保証ができなかった安全規制体制のあり方を問うのも当然な事。事故を検討する委員会の論議のなかで人が故意に操作したケースを見込んでまで安全規制を行えないとする意見もあったが、これからの課題として認識する必要がある。

JCO 事故が巻き起こした傷はふさがることがない。とくに自信を持って自分のところは大丈夫と何もしない企業は、この傷を広げる問題を内在していると認識することが必要だろう。常にマニュアルや体制、技術そのものをチェックして、問題があるか無いかを認識していく体質を持ち続けることが、佳民との信頼を持つことにもなろう。

また、引き起こしてはならない事故を防ぐためには「本質の伝承」や「素人が操作しても安全側に働くシステム」、「誤操作を知らせるシステム」が欠かせない。さらに、聞違いを正すために欠かせない情報の公開も大切だ。

事故を経験するたびに思うのは「絶対大丈夫と信じて何もしない体制」や「事故は他企業の事と知らんぷりする体質」、「事故の経験が他の企業に伝わらない」こと。常に危機感を持って見直すことが、明日を救うことになろう。


緊急被曝医療体制の強化を

放射線医学総合研究所所長 佐々木康人

わか国の原子力防災体制の中で、放医研は緊急被曝に対する放射線障害専門病院としての任務を担っており、従来より急性放射線障害に関する基礎研究、放射線事故治療研究、急性被曝患者情報の収集、障害患者の追跡診療を実施してきた。1997年6月に中央防災会議が改訂した防災基本計画原子力災害対策編において放医研は、「外部専門医療機関との緊急被曝医療に関する協力のためのネットワークを構築し、このネットワークによる情報交換、研究協力、人的交流を通じて平常時から緊急時医療体制の充実を図る」とされている。これに基づき、放医研は、緊急被曝医療ネットワーク会議を1998年7月に設立し、事故や災害における緊急被曝医療について検討と準備作業を行っていた。同時に緊急被曝医療フォーラムを開催し、関係者の情報交換、研修・討議の場としてきた。

1999年9月30日、東海村 JCO ウラン加工工場で臨界事故が発生し、3人の作業者が短時聞に高度の全身被曝を受けた。国立水戸病院を経由してこれら3人の患者を受け入れた放医研では、患者の診療に当たると共に中性子線被曝と同定し、線量評価を迅速に進め治療設計に貢献した。翌日の10月1日、緊急拡大ネットワーク会議が招集され、3人の治療について複数の医療機関の多分野にわたる専門家が一堂に会して検討した。その結果最も高い線量 (16〜20 GyEq 以上)を被曝した患者 ( A 氏) は、放射線による強い骨髄抑制に対して造血管細胞の移植が必要になると考えられたこと、予想される強い消化管障害などに対し集中治療の設備とそれに習熟したスタッフが必要なことから、第3病日 (10月2日) に東東大学医学部附属病院に転院し、白血球抗原型の一致した妹から末梢血幹細胞の移植を受けた。また、次に高い線量 (6〜10 GyEq) を被曝した患者 ( B 氏) については、やはり造血幹細胞移植が必要になると考えられることから、第5病日 (10月4日) に幹細胞移植治療に習熟している東京大学医科学研究所附属病院に転院し、臍帯血幹細胞移植を受けた。集中治療については、長期にわたり杏林大学の救急医療チームが大きな役割を担い、これに日本医科大学の救急医療チームが支援する体制をとった。最も低い線量 (1〜4.5 GyEq) を被曝した患者 (C氏) については、放医研において、無菌室で骨髄抑制時期の治療を受け、自家管髄機能の回復を確認した後、一般病室において治療を続行し、事故後82日目に退院した。

様々な分野の専門家の連携、協力による総合的医療が必要な急性全身被曝患者の治療に当たって、上記ネットワークがよく機能したといえる。医療チームの懸命な努力にも拘わらず、事故後83日目にA氏が、211日目にB氏が逝去されたことは残念でならない。ご冥福をお祈りし、こ遺族に心からお悔やみ申し上げる。全身被曝の影響は時間の経過と共に多臓器の障害を呈し、正に集学的医療の対象であることを体験した。このような悲惨な事故は二度と起こしてはならないと痛感する。一方、今回の経験に基づいて、万一に備えて緊急被曝医療体制を強化する必要がある。

現在原子力安全委員会の先導により、日本各地に地域ネットワークを組織すると共に、ネットワーク間の調整協力機構を始動する準備が進められている。

起こしてはならない事象に対しての備えであるので、効率よく維持しつつ、いざという時に直ちに機能する体制作りは実は容易でない。非常時の要求に近い事柄を平常時に実施している施設、設備、人員を同定し、その連携、協力、協調体制を常時維持していくことが必要である。そのための組織、体制作りと、訓練の繰り返しが重要となる。長期にわたりこのような体制を維持するため予算措置は現在の財政の枠組みではやさしくないと思われるが、その実現が何よりも大切である。社会の安全確保における究極の目的は人命救助、健康影響の防止であることの再認識が重要である。放射線障害の機構解明、治療法開発の研究推進の重要性はいうまでもない。


安全確保強化への取組み−事故後対応を振り替える

大阪大学名誉教授 住田 健二

日本では初めての臨界事故から、早くも1年目を迎えようとしている。原子力界にとっては苦悩の1年であったし、その渦中にあった関係者の一人として、なんと月日は早く過ぎるものだという感想を禁じえない。特に前半の半年は公職にあったので、相当タフなつもりであった自分も、年齢からくる心身の疲労の限界を痛感して、あれがもう半年続いたらとても持たなかっただろうと振り返っている。しかし、私は健康を回復できたけれども、この間にあの事故で大量の被曝をされた従業員2名が12月末、そして4月末にそれぞれ亡くなられた。

現代の日本のみならず、世界の関係者の懸命の努力と願いにも関わらず、残念ながら二人の回復はならなかった。その痛恨の想いが、私たち原子力関係者には大きくのしかかってくるのだが、そうした重苦しい気持ちに耐えつつ、冷静に今後のことに対処しなければならなかったこの1年であった。

1.事故調査と当面の対応について

事故発生直後に政府の要請により原子力安全委員会のもとに設置された事故調査委員会 (委員長・吉川弘之日本学術会議会長) は、大変な努力を集中して調整を進め、12月24日に調査報告を提出して解散した。これは、これまでの大きな原子力事故の調査が、技術面での専門家から構成されていた慣例を破り、人文・社会科学の専門家を多数加えたメンバーが参加し、多くの指摘や提案を行った。ここでその詳細を紹介する紙面はないが、その要点は、原子力安全規制の諸局面で、次第に取り入れられつつある。もっとも迅速、かつ顕著だったものは、規制関連の法令の早期改正であった。

政府は、すでに調査委員会の中間報告 (11月中旬) を受けた段階で、原子炉等規制法の改正と原子力災害特別措置法案を国会に提出、これは12月末に全会一致で承認されて成立した。

前者の改訂要点は、(燃料) 加工施設への定期検査実施、保安規程の遵守状況の点検、安全文化向上、事業者の従業者にたいする保安教育の義務化、安全確保に関する内部告発者の非不利益措置の確保である。

後者では、一定レベル以上の原子力災害発生時には首相が緊急事態宣言を出し、実施区域を指定、関係地方自治体へ避難等を指示する。事業者の防災業務計画作成および防災組織設置義務化。原子力安全委員会の緊急技術助言組織に法的根拠を与える緊急事態応急対策調査委員を法定した。また、追加予算として原子力防災対策のための約1,300億円を計上し、主に事故発生時の緊急対策に必要な機材・施設の整備を進めた。これらの事項はすでに手に付くところから実施に移されており、たとえば原子炉や核燃料加工施設の巡視・点検の強化に設置者が悲鳴を上げている状況が、私などにも聞こえてきている。

一方、原子力安全委員会は、吉川委員会の事故調査報告を受けて、1月17日に当面の基本施策を発表した。そこでは安全確保体制の強化、安全目標の設定、事故・緊急時対応、情報公開の徹底、専門部会の再編成、事務局移管後の原研諸機関との協力強化、自己点検と報告のフォロー・アップがあげられている。

また、事務局は2001年の行革実施に先だって、2000年4月1日より科学技術庁より総理府本府へ移管されて、科技庁の建物を離れて、虎ノ門三井ビルヘ移動した。その直後、佐藤委員長、住田委員長代理が退任し、松浦祥次郎、須田信英両氏が委員に新任され、松浦氏が委員長に互選され、青木芳郎氏が委員長代理に就任した。なお2001年1月にはさらに新設の内閣府へ移管が予定され、人員 (当時 20名) も、すでに非常勤技術参与を含め約90名程度に強化されており、内閣府への移転時は100名程度にまで増強される予定である。問題は科学技術庁という日本では只一つの技術官僚群が支配していた中央官庁が解体した後の、技術面での支持体制の再構築であろう。形式的には、世話役の科技庁の影響が薄れて、独立性が強くなり大変結構であるが、より洗練された行政官僚的支配体制に組み込まれていかないだろうかと私は老婆心をおこしている。

2.臨界事故に伴う関係者や地域住民への線量評価と今後の健康管理

今回の事故で、世界的にも注目を受けたのは、重度の被曝者を出したことばかりではなく、この種の燃料加工施設での臨界事故ではこれまで敷地外の一般住民の待避は不要とされてきた世界的な常識を破って、それが必要となったことであった。結異論的にいえば、これは規制行政上の大きな失態とされても弁明の余地が乏しいゆえんである。またこうした避難した多数の周辺住民の被曝推定をどう行うか、またそれらの人々の長期にわたる健康管理をどう取り扱うかといった点もあまり前例のない問題点であった。

原子力安全委員会に設けられた健康管理検討委員会の中間報告に基づき、科学技術庁より発表された被曝評価では対象となる人たちを JCO 従業員、防災業務関係者 (政府関係、原研、サイクル機構の職員)、一般住民に分類しで示している。こうした事故時の特殊性として、ホール・ボディ・カウンターやフィルム・バッジ等の測定器による実測値を有する者と、計算による線量分布と個々の人の行動調査から算出された推定線量を有する者がおり、前者によって、推定の妥当性を検証するようなプロセスが必要になる。これらの、行動調査による評価には相当な作業が必要となり、事業者および自治体の協力が不可欠であった。結果論ではあるが、非常に高い被曝を受けた3人の従業員以外では、防災業務関係者や社員で特殊な作業に従事したものを含め、実効線量当量で50 mSv を越える者はなく、一般人では約90%の人が約5 mSv 以下にとどまった。また、これらの結果を踏まえて、政府は今後ともにこれらの人々の精神的な負担までを含むケアーが大切であるとして、上記健康管理委員会の助言を得ながら短期的な健康診断や相談の機会を設けてこの問題に対応する準備を進めている。

3.周辺住民への社会的影響

今回の事故による直接的な人的被害の範囲は従業者にとどまったとはいえ、周辺住民に及ぼした心理的な衝撃は非常に大きかった。欧米、特にヨーロッパでの市民の反響はマスコミのセンセイショナルな取り上げ方に影響された面もあって、大きな動揺が示されたのに比して、わが国全体としてのそれは厳しくても理性的な反応にとどまった。しかし、現地での住民の不満は、動燃の再処理工場での爆発事故後ですら原子力推進へ好意的であった雰囲気を大きく変化させた。これは原子力利用全体への信頼感の喪失を示すものを感じさせた。

後日事故レベル4と判定されたように、事故によって周辺住民の避難や待避を避け得なかったという被害もさることながら、事故内容が相当時間不鮮明であった不安が大きく響いたようである。これらの点については、防災計画の発動・実施の責任が自治体とされていた当時の一般的な災害防止法の適用が不適当であった事を如実に示したもので、これまでの論争に終止符が打たれて、直ちに特別法が制定された。

4.安全文化の醸成と安全教育への反省

これまでも、事故やトラブルが発生する都度、原子力安全の重要さが強調され、これを守るためには「安全文化」の背景が大切であるとされてきた。立派に整備された法律や監督官庁の規制強化の重要性もさることながら、「経営者も、従業員も、監督者の役人も、皆が安全第一を忘れないことこそ」とは繰り返して説かれてきたことである。しかし、残念ながら JCO 事故では現場がそうした雰囲気から遠い所にあったのが実態であった。また、それを十分に把握しきれてなかった監督官庁や原子力安全委員会も責めは免れ得ない。

近年、わが国でもかなりの大きな原子力関連の事故やトラブルが続いていたので、そうした関連の職にあった私などは本当にほっと息をつく間も無かったように感じていたが、同じ企業内や同じ地域内での連続発生を経験すると、ある種の不安を禁じ得ないものがある。精神論だけではどうにもならない、規制においては相互信頼を前提とした事業者の自主性を尊重するより、細部に及ぶ規制の強化こそ安全確保の第一歩との声も大きくなってきている。JCO 事故調査委員会においても、原子力外部の学識経験者から、その種の批判的発言が多かったことは堪えた。

原子力界全体が反省し、お互いが安全確保に連携を深めるべきであるが、特に燃料加工業者間では、電力・電機業界のような組織的な事故・安全関連の情報交換が十分ではなかったとの反省がなされて、世界的な新しい組織、世界核燃料安全ネットワーク (INSAF) が計画されている。

また国内原子力産業全体の安全文化風土の共有を目指してニュークリア・セイフティ・ネットワーク (NS ネット) が12月9日に発足した。

もちろん規制を担当する政府内でも、もう一度根本的な制度の見直しからとの声が出始めている。

さらに、放射線に関する安全教育についていえば、これまで国際放射線防護委員会 (ICRP) 勧告を基準として進められてきたわが国の放射線管理体制は、大筋において妥当なものであったといえる。今回のような事故を体験してみると、放射線に対する一般人の知識水準が非常に高いと期待されていた東海村 (人口の3分の1は原子力によって生計が支えられている) であったので、予期もしなかった村落内での臨界事故発生でも、パニックが起こらなかった点はさすがであった。大多数の村民は危機対策面での不満は述べても、放射線管理の基準や判断にまで疑念を示さなかった。

また、日本原子力学会は事故直後から常設の安全特別委員会が自主的な調査活動を続けており、約1年に及ぶ調査報告を近く発表する予定で、その要点は、すでに日本原子力学会誌の本年8月号に特集に発表された。また同学会はさらに本格的な調査を行う特別調査委員会の年内の発足を準備中である。

なお、ここでは私がかつて所属した機関や関連の組織が行った、どちらかというと公的な見解や発表を紹介したつもりであるが、それでも個人的なものを含んでいる可能性があることをお断りしておく。

また、私の個人的な体験による感想や所見は、別途この原稿が活字になるのとほぼ同じ時期に刊行される予定の著書 (住田健二著:原子力とどうつきあうか:筑摩書房」) をご参照いただきたい。


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