[原子力産業新聞] 2001年11月1日 第2110号 <4面>

[わたしの軌跡] 佐々木史郎 (2)

核計算と英語、格闘続く日々

東京電力では社員に原子力を理解してもらうため、社報に「原子力発電 ABC」の連載を始めた。原子力発電課の課員がエネルギー資源、原子核分裂の仕組み、原子炉の構造等について交代で執筆した。難関は竹内次長の赤鉛筆によるチェックと修正である。これをいかにスムーズに突破するかが課員の関心事となっていた。私の場合、毎回「主語がない」「何を言いたいのかわからん」などのコメントで原稿の元の字が見えないくらい修正された。おかけで原稿のネタの資料を良く読むことになり、100年間の長期エネルギー需給を予測し原子力エネルギーの必要性を論じたパトナムの「エネルギー問題の将来」の内容はいまでも鮮烈な印象で記憶に残っている。

1956年6月、東電原子力発電協同研究会が発足し、東芝、日立とそれぞれの部会で原子力発電所の設計および計画を研究することになった。手始めに電気出力1万kW の水均質炉と沸騰水炉を取り上げたが、水均質炉は当時の核計算知識で設計可能な炉型式であった。計算機は手回しのタイガー計算機から電動のモンロー計算機に変わっていたが、核計算が大変なことに変わりはなく折角計算した設計書を電車の網棚に置き忘れる事件では関係者がまたやり直しということでショックを受けた。報告書とりまとめの頃、放射線遮蔽で貫通配管部の放射線漏れを指摘され、あわてて手計算で追加遮蔽をしたことがある。第一期研究は1956年12月に終わり、翌年1月学術会議主催の原子力シンポジウムで高井亮太郎社長 (故人) が研究成果を発表した。事前の準備が大変で当日は最前列で緊張しっぱなしであった。

原子力の研究は国が主導するにしても、原子力発電は国営か民営かをめぐって、それぞれの代表選手として当時の河野経企庁長官と正力原子力委員長の大論争があり、イギリスのコールダーホール型発電炉 (東海1号炉) を建設する日本原子力発電は、出資比率民間80%、政府関係20%で1957年に設立された。大論争の資料になったかどうか不明であるが、石炭火力と競合する原子力発電ということで、幾度となく前提条件の違うコスト計算をやらされた。当時アメリカは原子力発電の経済性およひ濃縮ウラン供給等の理由からイギリスのように国をあげて海外に原子力発電所を売り込む状況になかったが、GE 社、WH 社からそれぞれがアメリカで建設している原子力発電所の資料が送られてきており、調査研究の貴重な情報となっていた。

アメリカ人の原子力講演を聞いて「ジルコニウム」は「ザーカニャム」、「ウラン」は「ユレ一ニアム」と言うようだと感心するレベルで英会話学校に行くので、教室では教師にあてられないように専ら最後列に隠れて座っていた。しかし、イギリスからコールダーホール型発電炉が導入されることになり、官民の原子力関係者のイギリス訪問や原子力研究関係機関への留学が盛んになるにつれ、東京電力でも原子力発電課員の海外留学が計画され、池亀氏がイギリスへ行くので君はアメリカということになってしまった。アルゴンヌ国立研究所の原子炉学校を希望したところ、国の留学生試験を受けろと言われ、試験内容を聞いてびっくりした。筆記試験が英和、和英、ヒアリング、ディクテーションで英会話テストがあって面接試験というのが試験内容である。このままではとても駄目なので、大枚の身銭を切って英会話の個人教授を受けた。汗をかいて口ごもるたびにお札に羽がはえて飛んで行く感じであったが、「会社からでなければ授業料を割り引きしましょう」は大変有り難かった。面接試験では「なぜアメリカヘ」と聞かれ、東電は偏ったやりかたをしないからと教わった通りに答えた。合格後、アメリカ大使館でまた試験をやられたのには参った。

(11月15日号につづく)

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