[原子力産業新聞] 2001年11月15日 第2112号 <4面>

[わたしの軌跡] 佐々木史郎 (3)

原子力留学のあと、開発はスローダウン

アルゴンヌ原子炉学校第6期に参加するため、1957年9月、オリエンテーションが行われるワシントンに向け羽田を出発した。高井亮太郎社長 (故人) に出発の挨拶に行ったところ、「むこうに行ったらアメリカ人の生活の仕方や物事の考え方をよく勉強してきたまえ。それには生活をエンジョイすることだな」と言われた。

予想した厳しい激励でなく、すっかり面食らってしまった。図に乗ってエンジョイ中心で10か月の研修期間を過ごしたが、おかげで原子力の知識以外に中流家庭の堅実な生活、人種差別の問題があるにしても純朴な南部など貴重な体験をすることが出来た。アメリカと日本で社会も生活のあり方も違うが、フランクに言うべきことを言い、やるべきことをやるのがアメリカ人との付き合いで大切であることもわかった。また自らの日本を知ることが、アメリカを良く知ることにつながるのであり、英語力のあることだけで国際化ということにはならないことを実感した。

1959年、福島県の職員が突然、原子力発電課を訪れ、双葉郡の夫沢地点 (約60万坪) を原子力発電の候補地とすることの非公式な打診を行った。福島県の過疎地開発に熱心な職員で、夫沢の地質、地盤、人口分布および産業活動等の調査資料を携えての訪問であった。最初、東北電力へ行ったが、まだ計画がないと言われたので東京電力に来たとのことであった。

当時東京電力では、伊豆、房総、茨城等関東圏を中心に原子力発電所の候補地を探していたが、地質、地盤、人口分布等で適地がなく、地下式等の特殊な立地方式を考えなければならない状況にあった。夫沢地点について県職員から提示されたデータを中心に資料を作成し、経営上層部へ報告したが、下りて来たのは「すぐ買え」という判断であった。夫沢地点は海に臨んだ高さ約30メートルの崖の台地であり、外洋からの復水器冷却水の取水、耐震設計のための岩盤、補給用淡水の取水等立地に必要なオフ・サイトでの検討が行われ、1960年には適地であることを確認した。

今日、東京電力では夫沢を含む福島地点 (第一および第二) および柏崎地点で原子力発電所を運転しており、東通地点で建設計画を進めているが、いずれの地点も「すぐ買え」という先見的な判断を行った先人の築いた財産である。時代が移り、原子力を取り巻く状況も激変しているが、先人の財産だけに甘えることなく、新しい知恵と忍耐強い努力で新世紀に相応しい原子力発電の展開を図ることが望まれる。

1950年代後半、原子力界ではコールダーホールブームが依然続いており、コールダーホール炉を知らない者は原子力技術者ではないという風潮であった。東電原子力発電協同研究会でも、1958年の第3期研究で、第2期の軽水炉に続いて英国型炉を研究対象に取り上げ、検討を行った。このような熱気が冷めないうちに、火力発電の燃料は石炭から中近東の安い石油に変わりつつあり、火力発電原価が著しく安くなってきた。

これに加えて発電所のユニット容量が大きくなり、また熱効率も上昇したので、さらに発電原価の低減が図られるようになった。このため原子力発電原価は、火力発電原価に大きな差をつけられて高いものになってしまった。

また、イタリアで行われたガリリアーノ原子力発電所の国際入札では、コールダーホール型が敗退し、GE社の沸騰水型が勝つなどのことから、建設費がかさむ天然ウラン燃料炉の経済性が問題となった。原子力発電開発がスローダウンし、電力供給の構成が水主火従から火主水従へ移行するこの時期、原子力関係者の火力等他部門への転身が見られた。

火力にいる先輩から「優秀な連中を原子力にやったのに本ばかり読んでいるそうじゃないか。火力は忙しいのだ。かえしてくれよ」と言われ、索莫たる思いに囚われた。

(つづく)

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