[原子力産業新聞] 2002年1月17日 第2120号 <4面> |
[わたしの軌跡] 原 禮之助 (1)国連ジュネーブ会議の舞台裏今から半世紀近く前、原子力は平和利用へと大きく舵を切った。1953年、アイゼンハウアー米大統領により提唱された "原子力平和利用計画"。これを受けて1955年8月、国連による第1回原子力平和利用会議がジュネーブで開催された。先進国、開発途上国を問わず、世界が平和利用に大きな期待をかける中、日本よりの提出論文の中に、原爆投下を扱った政治色一色の論文があり、会議の趣旨にそぐわないと大きな波紋を呼んだ。 この事務局に各国より19名の科学者が参加、会議に関する一切の仕事を行った。日本にも科学者派遣の依頼があり、向坊隆先生 (初代駐米科学アタッシェ、当時東大助教授) が参加されることになった。しかし先生は1年もの間、その職を空ける訳にはいかず、急遽米国で研究生活を送っていた私に白羽の矢が立った。日本の国連加盟以前だった。 1955年5月、ニューヨークに集まった科学セクレタリーは、マサチューセッツ工科大学 (MIT) の教授ホイットマンを事務局長に、次長にはソ連のバビロフ、ノーベル賞受賞のサラム (パキスタン)、後にトリガ研究炉の普及に努力したドウ・ホフマン (米) も加わった。 日本による原爆関係論文の提出「日本から出る論文に広島、長崎の原爆関係のものがあるらしい。他国よりの論文は平和利用一色。せっかくの平和利用に水を差す。困ったことだ」。事務局の予想は的中した。「国連を通し、原爆の悲惨さを世界に訴える」という極めて政治色の強い論文もあった。「会議の趣旨に合致しない」という理由で、政治色一色の3篇の論文は自発的に撤回してもらった。 1954年3月、ビキニ環礁で行われた水爆実験で日本漁船第5福竜丸が被爆し、1名が他界した。木村健二郎先生により発表された漁船に付着していた "ビキニの灰"。この灰に先生はウラン237の存在を確認され、これが核兵器開発国の間に大きなショックを与えた。 ウラン237は、木村健二郎先生が1938年、天然ウランに中性子をあてて作られた極めてまれなウランの同位体である。ウラン237をめぐり、この論文の詳細を知ろうと事務局に核兵器保有国の代表が慌しく出入りしていたことを思い出す。 「きれいなはずの水爆から、なぜウラン237が検出された?」 この事実から極秘の軍事機密が世界に知れ渡ってしまった。ビキニの灰を降らせた水爆はただの水爆ではなく、炉心に起爆剤のプルトニウム、その外側に核融合を起こす重水素とトリチウム、その周りを天然ウランで囲んだ "三重反応水素爆弾" と呼ばれるもので、予想を超えた破壊力には天然ウランの分裂が大きく寄与していた。天然ウランの壁を厚くすれば、限りなく破壊力を増すことができる。この重大な秘密が漏れてしまったことが、その後の核兵器廃絶への道を開いたといっても過言ではない。 当時、日本国内において一部の学者の間で国連が広島・長崎関係の論文3篇を却下したことへの不満が高まっていた。「なぜ、原水爆の惨状を世界に訴える重要な論文を却下した。事務局に日本人がいて妨害したらしい。けしからん。非国民だ」批判の鉾先は私に向けられた。どう弁解したら良いか−。ある日、向坊先生に相談した。じっと私の言葉を聞いておられた先生は、「君、一切弁解するな。何を言われてもだまっていろ。批判は全部僕が引き受ける」。この先生の一言は、半世紀近く過ぎた今でも、私のニューヨークでの仮の宿、ホテルチュードアの資料に埋もれた、足の踏み場もない部屋と共に心に焼き付いている。 ジュネーブ会議から半世紀、この会議で発表された大量の資料が日本の原子力発電計画発足に役立ったことは、佐々木史郎氏の "わたしの軌跡 (1)"より推測できる。しかし、今でも我々にとって世界の流れを予測することは難しく、日本人の思考・行動と世界の流れにはしばしばずれがある。これを "平和ボケ" というのはあたらない。極東の島国に平和に暮らす、世界でもまれな "ほぼ単一民族・文化国家" の特長なのだ。 セイコーインスツルメンツ顧問。1951年電気通信大講師・理化学研究所所員、1952年ワシントン州立大・ハーバード大客員研究員・ルイジアナ州立大講師、1955年国連勤務、1959年国際原子力機関 (IAEA) 勤務、1969年第二精工舎入社、1985年同社副社長、1987年同社社長。 |