[原子力産業新聞] 2002年1月24日 第2121号 <4面> |
[わたしの軌跡] 原 禮之助 (2)初の商業用原子炉であるコールダーホール型原子炉東海原子力発電所の解体が現在行われている。1998年3月運転終了まで累積発電電力量290億672万kW時、設備利用率は62.9%という。 問題を見抜かれた嵯峨根先生 1956年10月、コールダーホール動力炉導入調査のため、第1回原子力訪英調査団が組織された。団長・石川一郎先生 (当時原子力委員)、副団長・一本松珠先生 (当時関西電力副社長) のもと、嵯峨根遼吉先生はじめ、産・官・学の一流の方々が加わった。私自身、石川団長の秘書役兼雑用係として参加した。調査団は、1956年10月29日から11月16日まで英国に滞在、各地の原子力施設を訪問し、精力的に英国側と議論を交わした。 初めて見るコールダーホール発電所は、想像を超えた規模であった。研究室で扱っていたX線装置などとはスケールが桁違いだ。この巨大な発電所を前にして、何が技術的問題点か見当も付かなかった。 「この炉のポイントは、耐震性と安全性、それと冷却材の炭酸ガスとグラファイトの反応だ」。嵯峨根先生はずばりと技術的な点を衝かれる。対象の大、小と問題点の抽出は関係ない。「先生の切れ味はすごい」と感激した。 当時、学者の間では、自力の開発が議論されていた。「純国産を作らないで、海外から既成の炉を導入する。これで技術が育つのか?」「我々が国産の炉を作って、誰が買う? 電力会社は買いませんよ。実績のある炉を導入するのが先決だ」と嵯峨根先生。米国生活の長い先生らしい意見だった。 通訳泣かせの名文句調査団は日程をこなし、英国原子力公社との話し合いがもたれた。 「ところで印象は…」「まあまあじゃないか」と石川団長。「まあまあじゃ、訳せませんよ・・・」「まあまあは、まあまあだ、君早く訳せ」「印象に残りましたというところではないですか」一本松先生が助け船を出される。 「コールダーホール炉は、糟糠の妻ってところだな」「糟糠の妻?」「美人じゃないけれど、丈夫で健康で良く働く奥さんですよ」と、また一本松先生。しかし、"not beautiful but strong, healthy and hardworking wife" では英語にならない。英国側は確答を得ようとする。それをかわす石川団長。通訳泣かせもよいところだ。 ある晩、意を決し石川団長を部屋に訪ねた。 「石川先生、この炉を買われるつもりですね。それならその線に沿って通訳します」。鳥飼玖美子著『歴史を変えた誤訳』でも明らかなように、訳し方に大きく依存する部分がある。"実績最優先" という嵯峨根先生の意見も熟知していた。私の問いに直接答えられず、「君、英国は日本と長い付き合いがある。英語を話すこともヨーロッパの国の中で相互理解に楽だ」「だが、戦争のこと、捕虜のことで対日感情は決して良くない。これを好転させる布石が必要だ」。さらに言葉を続けられ、「英国の対日感情が好転すれば、オーストラリアも良くなる。同じ太平洋圏に属し、資源もある。オーストラリアも大切なのだ」。石川先生の言葉を聞いた瞬間、「こうしたものの見方もある」と雷に打たれたようなショックを受けた。研究室育ちで、研究・技術の面からのみ、ものを見ていた私にとって、全く新しい開眼であった。 石川先生の予言は全て的中それから47年、英国は日本の投資が一番集中している国となった。日本人が移住したい国の第1はオーストラリアで、日本の投資も盛んだ。そして、"糟糠の妻コールダーホール炉"、日本の原子力発電は軽水炉中心となり、後継者がないことを嘆きもせず、黙々と一人電気を送り続けて31年半、まさに "糟糠の妻" であった。 天気予報、経済予測すべて当たり外れの多い今日しみじみ思う。 「昔の人は偉かった」 (追記 −本文を書くにあたり、元団員の広田実弥博士より貴重なアドバイスを受けました。また、日本原子力学会の富田靖氏より元団員・故法貴四郎博士の貴重な文献を戴きました。ここに両氏に厚く御礼申し上げます。) |