[原子力産業新聞] 2002年5月16日 第2136号 <4面>

[わたしの軌跡(4)] 夢から現実へと

1974年8月、「原子力船反対」の声を聞きながら、大湊母港を出航した「むつ」は、初臨界と放射線漏れ漂流と荒波にもまれた。長崎県の佐世保造船所での遮蔽改修工事、安全性総点検工事も終わり、大湊母港に帰着し、静かに関根浜新母港の完成を待っていた。

1987年6月、下北駅に着いて目に飛び込んできたのは、かつてさよならをした時と同じ釜臥山を借景にして母港に接岸しているチェリーグレーの船だ。

車で向かった事業所正門の表札は、「日本原子力研究所むつ事業所」に改められていたが、頭の中は14年前の8月にタイムスリップしていた。3回目のむつ市滞在は、原子力船「むつ」の機関長室が住み家になった。

機関長は、機関(原子炉も含む)運転総括責任者であり、放射線管理を担当する保健物理班の職員(機関士)の管理もしていた。部下に三名の原子炉主任技術者免状所有者がおり、第一種放射線主任技術者免状や核燃料取扱技術者免状を所有した機関士達を預かっていた。もちろん全員が一級または二級海技士(機関)の資格を所有していた。

佐世保出航の時から5年余乗船していた前任の和田浩機関長から業務の引き継ぎを受けた。機関室や格納容器内の機器の景色が赤(夢)から緑(現実)に切り替わるのに暫くの時間が必要になった。

和田機関長は、航海訓練所に入所して最初に乗船した練習船進徳丸で、三等機関士の仕事を教えてくれた恩人であり、1974年の「むつ」漂流の時の原船団海務部船員課長で苦労した方だった。

建造以来6人目になる機関長は着任後直ぐに原子炉蓋開放点検に備え、機器の健全性確認のために、冷態機能試験や温態機能試験を大湊母港で実施したので、制御室の景色は赤のまま過ぎていった。

関根浜母港の港開き、続いて吹雪の中を二隻の曳船を随伴して、補助ボイラーの蒸気で大湊母港を後にしたが、原子力船がむつ湾を航行する最後の姿になった。

下北半島を右舷に見ながら半周し、新母港に1988年1月27日に着岸した。佐世保から積んでいた低レベルタンクの水を陸揚げし、原子炉の運転モードスイッチの鍵と制御棒駆動盤(CR盤)の鍵が、県知事室から14年振りに船長室の金庫に戻った。

県漁連の会長とむつ湾漁業振興会の会長の船内査察があったが、昔の殺伐とした雰囲気は無くなっていた。官庁関係者はじめ諸先達の並々ならぬ努力によるものと、気持ちをひきしめていた。

関根浜母港を中心に展開した、原子力船「むつ」の原子炉譲開放点検、核燃料・制御棒点検、船体点検と多忙な日々が続いた。1972年に装荷し、一度も炉心から取り出すことのなかった核燃料と16年振りの対面をした。

元号が昭和から平成に変わった1989年の秋、「岸壁で原子炉の運転をさせて下さい」と関根浜港近辺の家々を訪問した。関根浜漁協や近隣漁協の事務所等を訪ね説明会を開いた22年前の大湊ホテルの広間が走馬灯のように頭をよぎった。

玄関先で断られた家もあれば、「お茶を飲んでいけ」と座敷で話し込んだ日も。

「難しいことは分からない。騒ぎにならない様に慎重にやって早く終わってくれ」と言われたのが頭に残っている。

このPA活動の時に真剣に話を聞いてくれた人達や、漁協の事務所等での説明会で出会った海の匂いを共有する人達の顔が忘れられない。

原子炉の運転を始めてから、「むつ市の人達に迷惑をかけない運転を心掛ける事」が座右の銘になり、出会った方々の顔や言葉が心の支えになった。(つづく)


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