[原子力産業新聞] 2002年5月23日 第2137号 <4面>

[わたしの軌跡(5)] 技術の伝承が走らせた

太平洋上へ

「むつ」は1990年3月29日、関根浜母港の岸壁で原子炉を臨界にし、20%までの出力上昇試験を4月28日に終了した。

太平洋で4回の出力上昇試験航海と4回の実験航海を経験したが、最後の2回の実験航海は、原子炉を運転して出航し入港した。

特に、第1回目の出力上昇試験の航海は、色々な場面に出会い大変だった。建造後22年になる機器や配管等に母港を出港してから色々とトラブルが続いた。舵取機用の電動機で起動器内のリレー接点が振動で外れ、トリップし舵が効かなくなって船長をあわてさせた。その後初めて経験する全力後進運転で、制御室の床が強く共振することが判った。

船体の捩じり振動は、船体中央部に二次遮蔽と格納容器内機器と3000トンを超える集中荷重がある前例のない船、しかも20年にわたり改造改修を続けていた船にとって、振動計算書通りにならなかった。制御室中央に設置してある制御棒駆動盤も床の振動には敵わなかった。

乗船者全員の緊張が続き疲労がピークになっていた時、制御棒の位置指示計の受信機にノイズがのる不具合が発生した。制御棒の位置指示計の確認試験を命令していたので、夜中の3時頃制御室に試験状況の確認に出かけた。原子炉は停止していたが、運転当直は母港を出港以来約3週間継続したままだった。

制御室で直員を指揮していた当直長に「まだ運転を継統させるのか」と詰問されて、我に帰った。

この時乗船していた報道陣の代表3名が同じ小さな鉄箱の中に住まいし、毎日食堂で同じ釜の飯を食べ、しかも使用前検査と船舶検査が同時進行中の特殊な環境の中で平常心を見失っていた。決して無理はしないと、心の中で思っていたのに、試験中止の決断が遅かったと猛反省した。1990年7月29日午前3時の出来事だった--。

最後になった第4次実験航海は荒れた海を航海した。波浪が原子炉の運転諸元に及ぼす影響を実験して、1991年12月12日10時30分、お世話になった多数の方々の笑顔に迎えられ、「むつ」は雪化粧した母港の岸壁に抱かれるように最後の着岸をした。記録によればその時の原子炉停止は11時10分で、岸壁で旗を振る人達の20メートル先の原子炉が運転状態になっていた。

「むつ」から「みらい」に

1994年7月に「むつ」は、関根浜港の岸壁で船首部、中央部、船尾部--に三分割した。中央部の原子炉と二次遮蔽を一体で切り離し関根浜港に隣接する丘の上に建設した日本原子力研究所むつ事務所の「むつ科学技術館」に収容してある。

船首は石川島播磨重工で居住区の改装をし、「みらい」に生まれ変わった。内装を取り外した機関長室の鉄板を、1996年に海洋科学技術センターの職員として見ることができたが、23年前に建造検査した時の懐かしさで声も出なかった。

「むつ」から「みらい」に変身するのを手伝った後、「むつ科学技術館」が最後の仕事場になった。

エピローグ

1960年代に基本計画され、建造された原子力船「むつ」は、長期間の不遇な時代を過ごしたが、万全な保守整備を重ねながら技術の伝承をしていた人達のお陰で、1990年に太平洋上を快走した。原子動力航行距離約8万1900キロメートル、原子炉運転時間は約3532時間だった。

東京で生まれ東京と太平洋で育ったが、1967年から98年までの21年間に、4回の勤務をしたむつ市は故郷になった。四季折々に彩られる自然の美しさに魅せられ、清涼な空気と美味しい水、そして「むつ」の思い出は、万感胸に迫るものがある。

現在太平洋を航海中の「みらい」、原子炉や記念の品々を展示してある「むつ科学技術館」は末永く愛されるようにと思わずにいられない。(終わり)


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