[原子力産業新聞] 2002年 7月 11日 第2144号 <1面>

[原産] 向坊隆氏が死去

日本原子力産業会講前会長で原子力委員長代理などをつとめた向坊隆氏が4日午前5時38分、心不全のため東京都内の病院で死去した。85歳だった。近親者による通夜・密葬は8日と9日、東京都杉並区の修行寺でそれぞれ執り行われた。喪主は妻、信さん。自宅住所は東京都世田谷区代沢2137−30。「お別れの会」の日取り、場所などは未定。

向坊氏は、1917年に中国大連市で生まれ、東京帝国大学工学部を卒業後、47年には同大学助教授に就任。54年には我が国初の在米大使館科学担当書記官として赴任した。当時はアイゼンハワー大統領の「アトムズ・フォー・ピース」発表直後。最初の日米原子力協定の交渉に心血を注ぐとともに、国際原子力機関(IAEA)創設時、国連加盟国でない日本を理事国入りさせるため奔走した。

58年、東大・工学部に復帰、我が国初の原子力工学科設置に尽力した。68年工学部長。77年4月から4年間の学長をつとめた。東大退官後は、81年7月から約10年にわたり原子力委員長代理として手腕を発揮。平和原則を堅持しつつ世界の先導国としての原子力政策の中枢を担った。89年には勲一等瑞宝章を受章した。

向坊氏が日本原子力産業会議の第5代会長に就任したのは92年2月。以降8年余り、国内外での豊富な経験を活かし国民的立場にたつ原子力総合推進団体の指導者としても大きな足跡を残した。

西澤潤一原産会長 向坊先生が東大工学部長の頃から存じ上げているが、当時すでに原子力関係のアタッシェとして米国駐在を終えられ、次に大学紛争中の総長として見事難局を乗り切られた。応用化学の名門と言うべき亀山直人先生の跡を継がれたが、ちょうど原子力工業の導入期にあたり、研究をほとんど放棄し身を挺して尽力された。原子力が教育、研究、産業にわたり順調に成長したのは全く先生に依る所が大きい。公平無私で広い視野と辛抱強さをお持ちの先生あっての事だ。

藤家洋一原子力委員長 「巨星墜つ」というのが今の感想だ。私が1960年に原子力を学び始めたとき先生は工学部で教鞭を取っておられた。心が広く、当時我々学生たちにいろいろ語りかけていただいたことが印象に残っている。原子力の平和利用をここまで進めて来られた第1人者としての足跡は等しく皆が認めるところ。先生のご逝去を惜しむ方は我が国のみならず、国外でも多い事だろう。

平岩外四東京電力相談役 突然の計報に接し、深い悲しみを覚えている。しばしば原子力委員長代理室に2人だけで寵もり、資源小国日本がエネルギー安定供給のため準国産エネルギーである原子力をいかにして着実に開発していくか議論を重ねたのが、つい昨日の事のように思い出される。原産会議会長在任中も、向坊さんは日本の将来を考えて精力的に活動され、数々の功績を残された。原子力平和利用に対する熱意は、今も脈々と原子力業界に受け継がれている。


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