[原子力産業新聞] 2003年5月15日 第2185号 <2面>

[シリーズ] 日韓原子力協力をふり返って(下)

 私は1921年、現在の北朝鮮の最東北端、威北鏡城郡の貧しい農家に生まれた。日本の植民地支配を受けながら、1942年、鏡城中学を卒業した後、当時日本でもあまり朝鮮人のいない桐生高等工業学校に入学した。桐生高工で平田文夫先生に出会い、応用化学をみっちり指導してもらい、私が技術者になれる基礎が築かれた。

 朝鮮半島が日本から解放されたあとは祖国に戻り、京城大学(現在のソウル大学)、ミシガン大学で勉強した。1950年の朝鮮動乱の時は北朝鮮人民軍の占領下、ソウルの永登浦工場長として合成樹脂を生産したり、今度は国連軍の管理下で現在の北朝鮮興南の破壊された工場を復旧する作業に従事した。興南工場では、日本が植民地時代に現在の北朝鮮に建設した大規模な水力発電所に関する資料を発見した。その後、韓日共同出資による麗川石油化学会社の創立、麗川石油化学団地の建設に携わった。この麗川石油化学団地と浦項総合製鉄の順調な稼働が、「漢江の奇跡」と呼ばれる韓国経済急成長を支えていた。

 韓国も日本も国内にエネルギー資源が乏しい国でありながら、第二次世界大戦後、工業化によって国の富を増大し、国民の生活レベルを向上させてきた。そして去年、アジアではじめてのワールドカップで共同開催を果たし、スポーツ面のみならず文化面においてもそのレベルの高さを世界に発信した。考えてみると、エネルギー資源がない国だからこそ、韓国も日本も高度工業化を進め、それと並行して原子力発電に真剣に取り組み、それが今日、世界に誇る原子力の成果になったのだと思う。

 21世紀の韓国と日本は、平和利用に徹した原子力推進国として東アジアでますます重要な国になるだろう。そして、原子力の分野で、これからの韓日は「競争と協調」の中で世界を牽引する高い原子力の技術水準を維持していかなければならない。そのため、より幅広い有機的な協力関係を築くことを願う。


Copyright (C) 2003 JAPAN ATOMIC INDUSTRIAL FORUM, INC. All rights Reserved.