[原子力産業新聞] 2004年4月15日 第2231号 <6面>

[原産年次大会] 文京区に訪ねる 名所・旧跡のご案内

 今年の原産年次大会が開かれる文京シビックホールの周辺には、かつて大名屋敷の庭園だった小石川後楽園や、伝通院など徳川ゆかりの寺、江戸学府の中心であった湯島聖堂・昌平坂学問所をはじめ数多くの史跡が残されている。

明治以降は旧東京帝国大学(東大)や私塾が林立した。学生や職員のための貸家や下宿屋も多く、坪内逍遙、森鴎外、夏目漱石、魯迅、石川啄木など多くの文人がこの文教の地で暮らし、数々の名作を生んだ。東大に程近い本郷通り辺りには、賄い付きの高級下宿が多かったという。

 現在の文京区は武蔵野台地の東縁部に位置し、緑豊かな坂の多い地域である。この地にゆかりの文人や江戸時代の面影が残る一隅を紹介する。

◇播磨坂さくら並木の文京さくらまつり(3月27日〜4月11日)

 文京花の五大まつりの一つ。ソメイヨシノを中心に約130本の桜並木が続く。パレードや展示などのイベントも企画され、今年も多くの人出で賑わった。坂の名称は、この地にあった松平播磨守の上屋敷にちなみ、播磨坂と名付けられた。

◇菊坂の樋口一葉旧居跡

 樋口一葉(1872〜96)は父の死後、18歳で母と妹と共にこの地の借家に移り住み、2年11か月を過ごした。一葉文学発祥の地と言われる。一家の戸主として洗い張りや針仕事で生計を立てながら、小説家として立つ決意を固めた。。半井桃水に師事し、『闇桜』『たま襷』『別れ霜』『五月雨』などの小説を発表。当時の雰囲気を漂わせる「一葉ゆかりの井戸」が残っている。

◇小石川後楽園

 水戸徳川家江戸上屋敷の庭園。寛永六年(1629)初代藩主頼房が庭の造営に着手し、2代光圀に引き継がれた。光圀は明の遺臣朱舜水を儒臣として登用し、中国趣味豊かで、池を中心に巡回する回遊式築山泉水庭園をつくりあげた。園名は『岳陽楼記』の「天下の憂いに先じて憂 い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から後楽園と命名された。

◇東大赤門

 旧加賀屋敷御守殿門。前田家13代藩主斉泰が文政十年(1827)、11代将軍徳川家斉の娘溶姫を正室に迎える際に立てた門。三位以上の大名が将軍家から妻を迎えるときは、朱塗 りの門(赤門)を建てるのが慣わしだった。

◇菊富士ホテル跡

 旧菊坂町にあった高級下宿。五層の楼を備え、屋根などに装置されたイルミネーションは夜の菊坂名物になったという。宇野千代、直木三十五、竹久夢二、谷崎潤一郎、月形竜之介など数多くの著名な作家や芸術家が止宿した。

◇永青文庫

 熊本54万石細川家の江戸下屋敷跡。細川家伝来の文化財と16代(護立)のコレクション数千点を収蔵し、展示公開も行っている。貴重な文化財が数多い。近くに同じく細川家下屋敷跡の新江戸公園がある。

◇関口芭蕉庵

 江戸時代の俳人・松尾芭蕉は神田上水の改修工事にたずさわり、その時この辺りの水番屋に住んだといわれる。

 写真は、芭蕉句碑(昭和48年建)「古池や蛙とび込む水の音」

白糸の滝

◇六義園(りくぎえん)

 元禄八年(1695)、五代将軍綱吉が側用人柳沢吉保に与えた下屋敷内の「回遊式築山泉水」庭園。六義園の名は古今集の六風体に由来する。吉保自身の撰した「六義園記」では日本風に「むくさのその」と呼んでいたという。江戸大名庭園の中でも代表的なもの。(写真左)内庭大門のシダレザクラ(写真上)桜の時期に催される庭園のライトアップ

◇三四郎池

 加賀藩上屋敷内の庭園「育徳園」の池で正しくは心字池という。夏目漱石の名作『三四郎』の舞台となったことから、「三四郎池」と呼ばれるようになった。小川三四郎と里見美彌子がこの池の端で出会う。「不図眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、池の向こ側が高い崖の木立で、その後が派手な赤煉瓦のゴシック風の建物である。」(「三四郎」第二章)

◇椿山荘

 江戸時代、上総久留里藩主黒田豊前守の下屋敷で、明治に入り山県有朋公爵の邸宅となった地。古来よりこの辺り一帯は椿が多く「つばきやま」と呼ばれており、「椿山荘」の命名は山県公による。大正年間に藤田平太郎男爵が譲り受けた。園内の三重塔は室町末期の建立で、大正14年に広島県から移築された。


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