[原子力産業新聞] 2004年6月24日 第2240号 <3面>

[シリーズ] ウクライナ便り、長引くチェルノブイリ被災者援助(1)

【キエフ6月12日=松木良夫】IAEAなどによる記録では、チェルノブイリ事故発生後、同発電所周辺に総面積4300平方キロメートルに及ぶ立ち入り禁止区域が設定され、その年の8月までの約4か月間に、同区域から約11万6000人が政府の命令でウクライナの首都キエフなどの旧ソ連各地へ移住したとされる。

 さらに、1990年から95年までに、ウクライナでは約5万3000人、ベラルーシでは約10万7000人、ロシアでは約5万人が、追加の移住を行なったとされる。

 これらの移住が行なわれた後も、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア全体で、立ち入り禁止区域の外側にある厳重管理区域(放射能汚染が1平方メートル当たり555キロベクレルを超える場所)に27万人が、またそれ以外の放射能汚染地域に680万人が居住するとされている。

 事故で破壊された同発電所4号機を覆う為の石棺の建設を含む、事故現場と周辺の回収・復旧作業には、60万人から80万人が動員され、その内約20万人が事故発生後の1年間の、最も厳しい環境で作業に従事したとされる。

 事故発生後しばらくして、当時の状況を調査した欧米の専門家達の報告書を読む限り、事故直後の避難と移住、住まいの提供、医療措置、生活保護などは、一部の例外を除き、極めて手際良く行なわれたらしい。旧ソ連は当時の社会制度を被災者達のために特別に拡大し、これらの人々の事故への関係の程度を何通りかに区分し、それぞれの区分に応じた医療措置、医薬品や住居の供与、公共交通機関利用券供与など、当時の制度で対応出来ることは直ちに実施したようだ。

 しかし、1990年代に入り、これら諸国の経済状況が悪化し、インフレも重なり、こうした当時としては最善を尽くしたはずの被災者援助制度も、実質的な効果が衰え始めた。日本をはじめ旧西側諸国の政府、NGO、市民団体は、90年代に入り現在に至るまで、医療機材の供与、医療技術支援などを中心に、これらの被災者達への支援活動を続けている。しかし、旧ソ連諸国で社会主義の制度の中で取扱われて来たこれだけの数の被災者達の処遇を、旧西側の標準でとらえ直すと、やや理解しにくい点もある。(来週に続く)


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