[原子力産業新聞] 2005年5月12日 第2282号 <2面>

[原産] 原産年次大会 午餐会特別講演 「良寛の書と生き方」

 第38回原産年次大会2日目(4月19日)午後の午餐会では、良寛研究所の所長で、日本で良寛研究の第一人者である加藤僖一・新潟大学名誉教授が「良寛の書と生き方」と題して、良寛の生涯、人間性、書などの芸術について講演した。

 良寛は、1758年新潟県出雲崎の名家に生まれ、幼名は栄蔵。元服して文孝、出家して大愚良寛と称した。18歳で剃髪、22歳で大認国仙人の弟子となり岡山県円通寺で修行した。33歳で印可の偈を受け諸国行脚に出て、39歳頃越後へ戻った。各地の草庵を転々として47歳、国上山の五合庵に定住。60歳、乙子神社草庵に移り、69歳で和島村の木村家草庵に移った。1831年1月に74歳で没した。

 良寛は曹洞宗の僧であるが、当時は無名で、乞食とされ、僧侶とは認められていなかった。没後、150年が経過してから曹洞宗の僧として認知され、曹洞宗を代表する名僧として、瞬く間に注目されることとなった。

 良寛は国仙、道元の教えを守り、生涯寺を構えず、妻子を持たず、無一文、清貧に徹した。法華経信仰では聖徳太子に比される。

 良寛の漢詩は600余首が知られ、唐木順三氏らから「最も日本の心を表現した詩人」と激賞される。また和歌は1300余首があり、斎藤茂吉氏らから「万葉調中の良寛調を完成」と高く評価される。さらに書は2000余点が残されており、自作の漢詩、経典、和歌を中心に和様の最高峰、日本美の極致と絶賛される。

 このほか、子ども達とまりつきや隠れんぼをして遊び、多くの逸話を残すなど、臨済宗の僧である一休のとんち話と並び、人々から敬愛されている。このように、良寛の禅、漢詩、和歌、逸話等を総合した人間性が世界的に敬慕されている。

 芸術のなかでも書では、「書聖」とされる弘法大師空海と並び称されている。『天上大風』という作品は、子どもに求められて凧に書いたものと伝えられ、意味は「大空に仏様の慈悲の心が充ち満ちている」と解釈される。

 良寛は、中国、日本の古典などの書風を学んだが、実際に書く段階では、それらの稽古をしたことを全く表に出さないで、あどけない気持ちで書いている。これはなかなか真似ることができない。見方によれば、上手か下手かわからない字を書いたともいえる。

 また作品『法華讃』は法華経を礼賛するもので、徹底した法華経に対する信仰心を表している。『愛語』は道元の『正法眼蔵』の文章の一部で、良寛が全文を書き取ったもの。

 『繊維経尼宛書簡』は草書体で書かれた手紙で、 最高傑作と評する書家もある。良寛は線の「細み」と「軽み」を完成させたといえる。

 書では、腕力と筆力は必ずしも一致しない。腕力がなくても、力強い線を出せる。良寛は、最晩年まで元気の良い書を書いた。精神力の発露と考えられる。良寛の書から、人生に対する考え方、人に対する考え方を偲んでいただきたい。


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