[原子力産業新聞] 2006年6月29日 第2337号 <2面> |
中曽根元総理大臣が講話 「基本法の理念、再確認を」 原産創立50年・新協会発足記念パーティ日本の原子力開発が重大な時期に入ってきた時期の原産協会の再出発を喜んでいる。原子力は日本の産業を支えるものの中心の1つであることは疑う余地はないが、不幸にして一定期間、停滞せざるを得なかった。いよいよたくましく前進を開始するスタートと思い、お祝いに参上した。 戦争から帰って来て「負けたのは科学技術で負けたんだ」と痛感し、日本を再建する道は科学技術だと思い、政治家になってそれを一途に努力してきたが、その1つが原子力だった。米国による占領中、マッカーサー元帥に「原子力の平和利用と民間航空機の開発を平和条約で禁止するな」との建白書を出し、昭和26年1月に平和条約交渉に来日したダレス氏にも同様の要望を出した。ダレス氏は、原子力平和利用の項目を指で指して、私の顔を見た。日本がこういうことに関心を持っているのかという好奇心を示したのだろうと思う。 昭和29年に2億3,500万円の原子力平和利用調査費を突如計上し、通過させたのが日本の原子力の始まりだったが、幸に超党派的な協力を得ることができた。昭和30年にジュネーブで第1回国際原子力平和利用会議が開かれた時、我々4人の国会議員が顧問として使節団に参加した。他の国の原子力の発展状況を目の前に見て、これはもう大変だと、1日も早く日本も体系を整えて前進する必要があると感じ、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカを周り、研究所や現場なども見て回った。超党派で原子力合同委員会を作り、原子力委員会設置法以下、8つの法体系を一議会で成立させた。これは超党派でやったから出来た。原子力基本法では、「自主、民主、公開、平和」を入れ、社会党の皆様も協力してくれた。 第1回原子力委員会から、将来の構想として、軽水炉から高速増殖炉、それから核融合という体系を、もくろみ書としては当時から作り、その道を日本は強く歩んできた。やはりこの原子力体系は、今後相当な国力を費やしても展開し、研究していかなければならない分野と思う。 米国では現政権が全力をふるって原子力の再展開に力を入れ始め、日本の技術その他を要望している状況だ。日本ではもんじゅの再開、六ヶ所村の再処理施設もいよいよ試験を開始するという状況になってきた。原子力に対する誤解が解かれ、関係者の非常な努力によって地元を説得し、県民に安心感が広がって、プルサーマルにむけて前進しようとしている。 原子力を始めた一番のポイントは燃料のリサイクルにあった訳で、化石燃料と違って何回も繰り返し使える燃料のリサイクルという点で、燃料のない日本にとって絶対必要な装置であり研究である。よって次の高速増殖炉の全面的展開の方向に進むべきであり、さらに究極目標である核融合の問題もおろそかにするべきではない。この点では国際協力で新しい仕事が始められているが、これも世界が同じ希望をもって、手を握り合った結果で、人類のゆくえに必ず輝いてくる時があるだろうと私は信じており、日本もその一端を受け持っているわけだから、全面的に努力すべきだ。 原子力を始めた一番の理念というものは平和と安全にある。これから前進するという時に、我々が原子力基本法に書いた理念、国民に対する福祉と安全、環境、こういう理念をもう一度改めて確認し、努力して頂きたい。 |