[原子力産業新聞] 2007年1月18日 第2363号 <2面>

原子力 地方からのレポート(4)茨城原子力協議会会長 黒木 剛司郎氏 「科学技術立県」の土壌生かす

――茨城県は、わが国の原子力発祥の地≠ニしての重みがありますね。

黒木 1956年にわが国で最初の原子力施設である日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)が茨城県東海村に立地して以来、東海村はじめ大洗町、那珂市に原子力の研究・開発利用施設が相次いで建設され、また、66年には日本原子力発電・東海発電所がわが国初の商業運転を開始した。茨城県は文字通り、わが国原子力の発祥の地であり、原子力関連技術はここで生まれ、育ったと言っても過言ではない。

一方、茨城原子力協議会(茨原協)は、東海村に旧原研が創設された時期に旧原産の地方組織として設立され半世紀が経つ。当初から社団法人としてスタート、会員には原子力関連研究機関、事業所、大学、活動の趣旨に賛同する一般企業、県内全ての市町村が参加しており、組織の名称も茨城だけは「懇談会」ではなく「協議会」であり、他の地方組織と異なる唯一独特な存在。自主事業、国と県の受託事業を3本柱に、原子力に関する普及、啓蒙活動を展開している。

――黒木さんが、茨原協会長に就任したいきさつは。

黒木 茨原協は、長年の知友である県言論界の重鎮が会長職を務めてこられたが、03年に他にバトンタッチするに当たり、事業所、行政、一般サイドのいずれにも偏らない姿勢を堅持する観点から茨城大学の私に白羽の矢が立ったようだ。私の専門は材料力学で原子力と直接つながりはないが、52年に茨大助教授として赴任以来、6年間の学長歴任を含め36年間在籍、原子力発展の歴史を間近に見てきた。でもまさか会長になるとは思ってもいなかったが「是非に」と請われ、思えば大学卒業後、第七高等学校講師として最初の教え子に被爆経験者がいたこと、また、工学系の人間として資源小国日本は原子力に頼らざるを得ないと考えてきたこと、および放射線のリスクを防ぎながら原子力平和利用の必要性理解の道を開いていくお手伝いができればとの強い思いも重なり、引き受けた。

――茨城県では今、エネルギー分野だけではなく、世界最先端の超大型加速器の建設などをベースに、原子力総合科学を核にした21世紀の新たな飛躍の踏み台に立っている。

黒木 原子力の風向きが変わり世界的に勇気付けられる動きを体感できるが、ここ茨城においても高温ガス炉による水素製造や核融合など新しい分野の研究開発が進みつつある。さらに、放射線利用への期待が大きく、これまでのガンマ線利用に加え、中性子利用、量子ビーム技術が本格化している。特に、世界最高レベルの大型加速器施設「J―PARC」の建設を契機に、茨城県は産学官によるバイオ、ナノテク、ITなどの研究開発ならびに研究成果の産業波及促進を狙いとした「サイエンスフロンティア21構想」を打ち出した。同構想の3本柱の第1は、県独自でJ─PARC内に中性子ビーム実験装置を整備、全国企業に広く開放し、中性子の産業利用を先導していく。第2は、多様な人材の育成。第3は、国際的な研究を支える地域環境の整備である。

このように、わが国の原子力発祥の地・茨城は今、つくば市も加えた科学技術立県≠フ土壌を生かし、「原子力立国時代」にダイナミックに呼応、さらなる半世紀の第一歩を踏み出しつつある。ただ、「サイエンスフロンティア21」のような大構想は県が中心になって推進するし、地域共生・産業振興といったテーマも茨原協の直接の仕事ではない。また、J─PARC関連の理解を深めるといっても一般の人にはなじみ難く、あれもこれも一度に進めるのは無理で、当面は大学や研究者にお任せしたい。

われわれ茨原協はもちろん、こうした新しい時代の流れの加速・発展に協力はするが、JCO事故の反省からも、活動の基本はあくまでエネルギーとしての原子力および放射線利用の普及・広報の継続にある。

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【略歴】 大正9年生まれ、東京帝国大学工学部機械学科卒、茨城大学助教授、同教授、同学長、88年に学長退官後、2000年、社団法人茨城原子力協議会理事、03年5月から現職。


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