[原子力産業新聞] 2007年8月9日 第2391号 <4面>

放医研が創立50周年講演会 米倉理事長 「放射線の光と影を研究」

放射線医学総合研究所はこのほど、経団連ホール(東京・千代田区)で、「創立50周年記念講演会」を開催した。

1957年7月1日に設立された放医研が50周年を迎えるに当たり、米倉義晴理事長は、ビキニ第五福竜丸被曝など、放射線の持つ「光」と「影」が表面化してきた時期だったと発足当時を振り返った上、今後は、放射線の生体影響・防護、医学利用の分野に加え、両者を包含した新たな研究領域に挑んでいくほか、国内外に開かれた研究所として一層前進していく考えを披露した。

続いて、高橋千太郎理事が、放医研の変遷をスライドで紹介、会場一杯に詰めかけたOBらが、スクリーンに映された、旧科学技術庁門前に掛かる標札、開所式に向かう中曽根康弘同長官(当時)など、草創期の様子や、内外VIPを研究施設視察に迎える往年の所長らの姿を懐かしんだ。

59年の千葉移転後は、放射能計測装置、加速器など、設備整備が急速に進められ、現在、研究活動の柱となっている重粒子線がん治療、分子イメージングの発展の礎も74年頃までに築かれた。

一方で、高橋理事は、86年のチェルノブイリ事故、99年のJCO事故では、全所上げて多忙を極めたとして、放医研の被曝医療機関としての活躍にも触れた。

特別講演では、杉村隆・国立がんセンター名誉総長が登壇し、同氏も69年に受賞したがん研究の功績者に与えられる「高松宮妃癌研究基金学術賞」の受賞者を振り返りながら、この半世紀のがん治療発展を顧みた。

また、放医研より5年遅れで、62年から同研究所とともにがん医学に取り組んできた国立がんセンターの設立に先立ち、千葉開所間もない放医研を訪れた経験を思い起こし、当時は地元で「放医研は?」と言っても、「ホイクエン?」と返されるほどであったのが、今や重粒子線装置稼働でがん治療の進歩に貢献し、広く知れ渡るようになったなどと、その躍進振りを称えた。

終わりに同氏は、外科療法、化学療法、放射線治療等、各療法のバランスをとって、がん患者が減少していくよう、今後の放医研の活動に期待した。


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