[原子力産業新聞] 2007年10月26日 第2401号 <6,7面>

〈原子力機構理事長賞〉福井県立藤島高等学校・1年 上坂 宣基 水素と原子力、持続可能な社会のために

最近、地球温暖化の影響が顕在化しているように思う。異常気象とは30年に1回程度しか起きない現象と定義されているが、1998年から2004年までに日本国内だけで2,000件以上が報告されているらしい。観測史上初とか、記録的な数字ということを聞いても慣れっこになってしまった。

異常気象の大きな原因の1つは人間の消費活動だが、エネルギーを消費しなければ社会は存続できない。省エネに努めても夜には明かりが必要だし、車に乗らないにも限度がある。

そんな中で二酸化炭素を出さないバイオ燃料が注目されている。バイオ燃料とは、トウモロコシなどの穀物から生産されるアルコール燃料のことである。その特長は、燃焼時に出る二酸化炭素が植物の成長過程で取り込んだ二酸化炭素であり、バイオ燃料を燃やしても二酸化炭素を出さないとされていることだ。結果的に化石燃料を燃やさずに済んだ分、二酸化炭素を削減できたともいえる。燃焼時に出るガスも化石燃料に比べると格段にきれいだ。また、化石燃料が一度の利用で使い切るのに対し、バイオ燃料は太陽をエネルギー起源とするため作物を植えれば年周期で再生産できる。つまり完全リサイクルの閉じたエネルギー源である。これはバイオ燃料が無尽蔵のエネルギーであることを意味している。たしかにバイオ燃料は化石燃料に代わるものとして、持続可能な社会を支えるにふさわしい燃料に違いない。

だが私には納得できない点がある。

バイオ燃料の需要が増えれば燃料となる穀物が高騰するのは当然であろう。そして穀物が高騰すれば、収益を求めて燃料となる穀物の作付け面積の増大が十分に予想される。だが世界の耕作地は限られている。反動として他の作物の生産量が落ち込み、農産物全体が、ひいては食品全体の高騰が必然の結果として導かれるではないか。

食料は人間にとって第1のものである。裕福な国の人々には金銭的な痛みで済んでも、貧しい国の人々には生死をかけた重大問題となる。飢えは未だに人類の第1位の死亡原因であり、世界では8億5,000万人を超える人々が飢えに苦しんでいる。この人々を横目で見ながら、穀物を燃やして車を走らせることが許されるとは私には思えない。

考えて欲しい。穀物は人間の食料である。だから食料を燃やしてはいけないのである。穀物を市場の原理に任せれば、バイオ燃料は環境にやさしく、そして人類には残酷なエネルギーとなるに違いない。

社会が持続可能な社会となる鍵は、原子力発電にあると思う。

化石燃料の枯渇を背景に、産業用エネルギーを水素に切り替えていこうという構想がある。産業界ばかりではない。燃料電池の普及に伴い、将来、水素は発電、熱源、動力にと家庭にも深く浸透すると考えられている。資源エネルギー庁の燃料電池実用化戦略研究会によると、燃料電池車だけでも、2020年には500万台に達すると予想されている。

この水素を原子力発電でつくるのだ。

現在、水素はほぼ全てがメタン水蒸気改質法でつくられ二酸化炭素を余剰物として出す。だが水素は水を原料としてつくることのできるエネルギー媒体だ。エネルギーを取り出した後も水に戻り、リサイクルの手本のような性質を持つ。原子力の豊富な電力を使い電気分解法で集中的に水素をつくれば、二酸化炭素を出すことなく、必要とする水素を効率よくクリーンにつくることができる。おまけに原子燃料もリサイクルが可能な燃料である。近い将来に訪れる循環型社会の担い手が、水素と原子力である可能性は極めて高いと思う。

そこで最も重要になるのが原子力発電の安全性の問題である。――正確には安全性の問題ではなく、安全性が伝わっていない問題というべきかも知れない――原子力に求められる最大の品質が安全であることは論を待たない。

では安全をつくり出すヒントは何か。それは原子力技術の成熟だけでなく、「人を育て、組織を育てる」ということではないだろうか。

社会の原子力を受け入れるハードルの高さは、そのまま期待の高さの表れだとしても、原子力を操作するのは心を持つ人間である。厳しさの裏側には、励ます心、努力を認める心、期待する心がなければ人は育たないと思う。

監視ではなく関心を持つことは、何より人を勇気づけ組織を活かすものだ。事故の原因についても、運転員一人ひとりを見れば、いい加減な気持ちや職務怠慢から事故が起きたとは思えない。むしろ、あらゆる失敗を許さない雰囲気の中で、電力の安定供給への責任感が誤った選択につながったのだと思う。

この失敗を許さない雰囲気をつくったのは、まぎれもなく私たちである。ある意味で、私たちが原子力を袋小路に追い込んでいるのではないだろうか。

私はこのコンクールに応募して4年になるが、振り返ると原子力の是非を問う立場にこだわり、育てるという見方が欠けていたと思う。しかし原子力の安全は供給する側だけの責任ではないと今は思える。

私たちは民主主義に生きている。原子力に反対する意見も含めさまざまな意見があっていいと思う。だが原子力発電を外側から非難するだけでなく、私たちに必要なものをどうやって確保していくかといった、内側からの視点だけは忘れてほしくない。

エネルギー問題は一人ひとりが省エネに励めばそれで済むという問題ではない。一つひとつの積み重ねの上に、社会がシステムとしてどう取り組むかが大切なのだ。そのシステムの中心にあるのが、原子力であれと私は願っている。


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