[原子力産業新聞] 2008年6月12日 第2432号 <4面>

中国電力 上関立地の進展を追う 誘致から26年、努力が結実 反対強硬だった祝島にも変化が 過疎化止め、町発展へ 原子力新規立地で地域振興

中国電力待望の第2原子力発電所サイトとして、山口県の瀬戸内海側、上関町に計画している上関原子力発電所の立地が、この4月に実現に向けて大きく前進した。最高裁判所で予定地内の一部土地所有権の問題が、同社の主張の通りに解決し、今後、建設着工に向けた本格的な作業が開始される。今号では次ページにわたって、当時の上関町長が議会で「町民の同意があれば誘致してよい」と26年前の1982年6月に発言してから、今日に至るまでをまとめた。

中国電力はこの3月末の同社供給計画において、山口県上関町で計画する上関原子力発電所(1、2号機=各137万3,000kW)について、「訴訟の長期化等により調査の終了が遅れている。苦渋の選択だが、営業運転開始を1年繰延べる」(山下隆社長)と発表した。

それから間もない4月14日、繰延べの主な原因とされた「旧四代区有地訴訟」の最高裁判決が言渡され、同社側の勝訴が確定した。この訴訟は、1988年に中国電力が上関町四代区の区有地を発電所用地として交換取得したことを巡り、これに反対する住民4名が同社および残りの地区住民(約100名)を相手に、土地の所有権移転登記の抹消と入会権の確認を求めて提訴したものである。争われた土地(係争地)の一部は、1号機の原子炉建屋にかかる重要なポイントである。03年の一審判決では、原告の入会利用権が認められ、中国電力による立木伐採および土地の形質変更が禁止された。

続く05年の控訴審判決では、入会権は時効消滅したとして同社側が逆転勝訴したが、原告側が上告したことから、同社では係争地内での地質調査は最高裁判決の見通しを得たうえで着手したいとの方針を示し、その結果、原子炉設置許可申請に向けての「詳細調査」も長期化したということである。

しかし、このたびの同社側の勝訴確定により、詳細調査完了の見通しも立ったことから、発電所建設計画が着工に向けて大きく前進することになった。

【電力事情】

中国電力は1974年3月に“わが国初の国産原子力発電所”である島根原子力発電所1号機(46万kW)の運転を開始した。商業用としては、関西、東京電力に次ぐものであり、早くから原子力開発に取り組んでいた。しかし、その後の原子力開発の遅れから、現在、発電設備構成比における原子力の比率は約8%と、全国平均(21%)を大きく下回っている。

一方、石炭火力は34%と全国平均の倍以上を占めており、他社と比べ二酸化炭素排出係数が高いことから、地球温暖化問題への対応に苦慮している。さらに近年の燃料費高騰も同社の経営環境に大きな影響を与えている。

このため、同社においては建設中の島根原子力発電所3号機(137万3,000kW)とあわせ、建設準備中の上関原子力の開発が喫緊かつ経営上の最大の課題となっている。

【これまでの経緯】

島根に続く2地点目として、同社では1970年代後半から山口県西北部の豊北町(現下関市)を有力な候補地点に選定。78年の第4回総合エネルギー対策推進閣僚会議で豊北地点は「要対策重要電源」に指定されたが、建設反対を掲げた町長が誕生するなどして計画は後退。80年代から、豊北に代わる地点の模索が行われていた。その状況下の82年、山口県上関町議会で当時の加納新(かのう・あらた)上関町長は、「町民の合意があれば(原子力発電所を)誘致してもよい」旨を表明した。

山口県上関町は山口県の南東部に位置し、瀬戸内海に突き出した形の室津半島と長島、祝島、八島等の島々で構成された人口約3,800人の町である。地形上、古くから瀬戸内海海上交通の拠点・要所として栄え、江戸時代には朝鮮通信使も寄港するなどした所だ。

しかし明治以降、陸上交通の発達とともに海上交通の要所としての機能は徐々に失われていく。それでも、現在の上関町制がスタートした1958年には人口約1万3,000人を数えたが、高度経済成長に伴い急速に人口流出が進み、80年代に入ると人口は6,000人余へと半減した。

同町では、この過疎化に歯止めをかけるべく積極的な企業誘致活動を行ったが、島嶼部であるが故のハンデを抱え、成果に結びつかなかった。その中で選択肢の1つとして持ち上がったのが原子力発電所だった。

84年、上関町は中国電力に対し事前調査(立地可能性調査)の実施を申し入れると、同社は町内に「上関立地調査事務所」を設置して調査を開始。翌年には「適地である」との調査結果を町に報告した。これを受け、同町は88年に「原子力発電所立地を契機とした恒久的な発展を目指した町づくりを進めたい」と誘致の申し入れを行った。同社は立地環境調査を行ったうえで、8年後の96年に山口県および上関町に上関原子力発電所の建設を正式に申し入れた。

その後、同社は漁業補償交渉(2000年契約締結)や土地売買契約を進め、第1次公開ヒアリング、知事意見を経て、01年5月、経済産業大臣が電源開発基本計画への組入れを決定した。

04年に土地売買契約が完了したことから、同社では05年から原子炉設置許可申請に必要な発電所敷地および周辺の地質データ等を取得するための「詳細調査」を開始し、現在敷地内のボーリング調査や試掘坑調査、広域の地質踏査や海域音波探査等を実施している。当初予定していた約2年の調査期間は若干遅延しているが、前記の訴訟が解決したことから、同社では今後できるだけ速やかに調査を完了し、早期の原子炉設置許可申請を目指している。

【激しかった反対運動】

地元の誘致表明から26年目を迎えた同計画だが、その間には激しい推進・反対の運動が展開されてきた。中でも反対運動の中核を担うのが建設予定地の対岸約4kmに位置する祝島である。

祝島は、上関町の中心から定期船で約30分余りの離島である。当初は、島内でも発電所計画へ一定の理解が得られていたようだが、間もなく一部の島民が「反原発」を掲げた。加えて町外の反対活動家による巧みな活動や島内の原発労働経験者による「原発危惧論」の吹聴により、“一夜のうちに”島民の9割の反対署名を集め、反対派組織が結成されたと言われている。

中国電力による建設の申入れ、第1次公開ヒアリングなど立地の節目では、町内の反対派住民に加え、県内外の多数の反対派による阻止行動が繰り返された。また同社による詳細調査等を巡っても、祝島の反対派住民が中心となって作業員や調査用船舶等を取り囲む妨害活動が行われたという。

しかし、発電所誘致が浮上した当時、1,200人以上が住んでいた祝島も現在は半減し、また70歳以上の高齢者が6割を占めるほど過疎高齢化が進む。一時のような過激な反対運動は確実に沈静化し、今では反対運動を続けることへの疑問の声もささやかれているという。

中国電力上関調査事務所では「顔をつき合わせて話をすれば、必ずや理解がいただけると思う。機会があれば是非、直接話をしたい」(和森康修(わもり・やすのぶ)所長)と、同計画をより多くの住民に理解してもらう努力を続けている。

とかく事業者(中国電力)対地元住民という構図で、まるで町を二分して対立しているかのような報道も見受けられるが、計画が着実に前進しているのは、住民の多くが計画の推進を期待しているからに他ならない。82年の誘致表明以来、上関町では8回の町長選挙と7回の町議会議員選挙が行われているが、いずれも推進派の町長が当選、議会においても推進派の議員が過半数を占めてきたことが、そのことを如実に物語っている。

この20年余で町の人口はさらに半減し、高齢化率は約50%と、県内で最も高齢化が進んだ自治体となっている。町の財政は非常に厳しく、8割以上を地方交付税や国、県の支出金に依存している。この間、全国各地の自治体では道路や公共施設の整備が進められたが、上関町ではインフラ整備が進んでいない。道路整備率は県内最低の35%(県全体は約60%)に留まり、町内の道路では車の離合がかろうじてという箇所も少なくない。

【恒久的な発展をめざして】

現在、上関町では電源三法交付金の1つである原子力発電施設等立地地域特別交付金を活用した温浴施設事業の準備が進められているが、原子力発電所の着工に伴い、町には1基あたり総額72億円以上の交付金が交付され、運転開始以降は固定資産税も加わる。「原子力発電所立地を契機とした恒久的な発展を目指した町づくり」が、ようやく実を結ぶ時期が到来したといえよう。

昨年9月に行われた町長選挙では、現職の柏原重海(かしわばら・しげみ)町長が再選を果たした。過去7回の町長選挙では6割弱の得票であった推進派候補が、初めて7割近い票を集めた。

柏原町長の「原発立地の目途はすでについた。推進、反対で対立する悲しい状況を終えたい」との訴えが、これまで以上に多くの住民に受け入れられたことに他ならない。


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