【論人】 村上 憲治 前IAEA保障措置部長 IAEAでの貴重な四半世紀ウィーンの国際原子力機関(IAEA)で27年間勤務した後、日本に来て仕事をしている。長期に海外でそれも国際機関で仕事をして日本に来ると、日本での生活が新鮮に感じるのと同時に戸惑いの連続でもある。 IAEAでの仕事27年と聞くと大抵の人がまずその長さに驚き、どんなに大変な生活だったのかと同情と興味をそそるようだ。そのうち13年は核査察担当の部長だったと聞くと、これはもう日本人よりも外国人にでも接する様な反応が多い。 確かに国際化が叫ばれる昨今でも、長期に働く日本人職員の数はまだまだ少ないが、国際機関の中では別に珍しくはなく、私の同僚にも私以上の勤務年数を持つ者は随分いた。これは日本人の職員が少ないのと様々な理由で、数年で帰国するからだろう。流石に13年の部長在任というのは稀で、エルバラダイ事務局長体制の12年を見ると、部長以上の幹部職員40数名の中で残ったのは私を含めて2人だけだった。あとは数年で交代し、いかに目まぐるしくIAEA幹部職員が代わったかと言える。 IAEAでは、実に様々な出来事に出合い貴重な経験をしたが、IAEAの現在に至たる発展を振り返ると興味深い。私が入った1982年頃は、IAEAを知っている人は原子力の分野でも限られており、ごく小さな技術集団としてのみ知られていた。日本でも全く無名で、当時の新聞では長々とその活動の注釈を付けて説明するのが普通だった。まして保障措置(Safeguards)の仕事は殆ど知られていなかったので、家族や友人に説明するのに苦労したのを覚えているし、東欧に行った時には、IKEA(最近日本にも進出しているスウェーデンの家具会社)のセールスマンと間違えられそうになったこともあった。 【働き始めたころ】 その後四半世紀で、これほどIAEAが国際的に注目される組織になるとは内部の職員も予想しなかったし、国際社会でも当時期待されてはいなかった。振り返ると、ここに至るには様々な紆余曲折や危機があったが、一番大きかったのはチェルノビル事故と、イラク査察だろう。 チェルノビル事故は、旧ソ連内の出来事で西側が手を出しかねている時に、迅速に対応し専門官チームを送って調査し、その後ロシアを含めて事故処理のまとめに当った事は、以後の国際的枠組み作りの基礎となった。当時IAEA内部では、事故の大きさと情報不足、専門家探しでむしろ大きく混乱していて、適切な対応が出来たのが不思議なくらいだった。イラク査察に関しては、1991年当初私も査察をリードしたが、殆ど暗中模索の状態だった。情報不足と技術不足、その上にイラクの非協力的な状況でなかなか進展せず、砂漠の中をうろうろして物証集めをしたこともあった。その後、苦労して核開発を究明したが、その際、結果の正確さと技術的裏付けに全力を注ぎ、政治的圧力にも影響されずに技術的確信を貫いたのが、その後の国際社会の信頼とサポートを得る事になった。 その他、色々の出来事があったが、振り返るとそれらを乗り越えたのは、当時のリーダーシップとその迅速な行動力に依るところが大きいと言える。原子力の技術者集団としての使命感と、明確なビジョンで導かれたとも言えるかもしれない。 IAEAにいると、日本ではなかなか出来ない貴重な体験もした。ご存知の様に9月の総会には毎年日本から大臣が出席され、日本人職員と懇談の機会で幹部職員として大臣はじめ日本の原子力関係の第一人者と懇談が出来たのは良い刺激になったし、貴重な意見交換の場だった。 日本から来た原子力の第一人者が、日本では大きな事故は絶対に起こらないと自信を持って言われたのが印象に残っているし、日本には非核三原則があるのに保障措置が必要かと聞かれ、議論したのを思い出す。 それともう1つ、総会に二度出席された大臣はなく、毎年違った大臣が出席された。それだけ、日本で大臣が目まぐるしく代わった故だろうが、他の国の代表や同僚に説明するのに苦労した。お陰で数多くの大臣にお目に掛り、中には個性的な演説で総会の話題となった方や、日本の選挙演説そのままの異色の演説をされた方、日本での評判通り傍若無人な方など色々であった。総会に来られた大臣の多くがその後の政界で重職を担ったのは、科学技術の分野がやはり日本にとって重要であり、有力政治家の登竜門だったということか。 【四半世紀の勤務を終えて】 国際機関で働くのと日本で働くのとは確かに違うが、それ程大変で苦労が多いとも思わなかったし、私自身特別に気負って働いたとは感じない。むしろ、その仕事を通じて得られた経験と知識は、それよりはるかに大きかったと感じている。この体験を広く伝えて、日本から原子力の国際世界へ、もっと多くの若い世代が出て行く一助になれれば幸いである。 |
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