田嶋裕起・前東洋町長 文献調査に応募した町 その時、何が起きていたか 善良で原子力知識のない住民に 反対派に負けないような分かりやすい説明を

私の住んでいる東洋町は、高知県の東端で徳島県境に位置する人口約3200人の典型的な過疎の町。1959年(昭和34)に合併して東洋町になり、8600人余りがいま63%以上減少した。

私が、今回の「核廃」問題に実際関わりを持つようになったのは、懇意にしていた町内の漁協組合の組合長から、NPO法人の人を紹介されて、話を聞いたことがきっかけで、まず06年3月20日付けで文献調査の応募書を提出した。

ただし、そのときはNUMOの人が役場に来て、「議会や町民への説明などはどうなっていますか」と言われ、正直「何もやっていません」と答えたところ、「そう言うのをやられて、熟度が高まってからでも遅くはありませんよ」と言われた。難しいもんだなあーと思いながら、応募書はその場で返してもらったという経緯がある。

その後、私なりに勉強するうち、これはやはり、議会と町執行部で勉強をする価値は十二分にあると思い、議会に相談し、「勉強をすることはいいことだ」ということになり、第1回勉強会を8月8日にNUMOの担当者に来てもらって行った。

この勉強会の2日前の新聞には、文献調査に応募した自治体および隣接自治体への交付金が2億1000万円から、07年度からは10億円になると報じられていたので、正直、期待を大きくした。

その時の勉強会には、町執行部の在庁者と10名の全議員が出席したが、特に反対を唱える人はいなかった。

それから1か月後の9月議会終了後に議員に集まってもらい、「今後どうしましょうか」と相談し、いろいろ意見は出たが、「勉強を続けていこう」という結論になった。

その後、地元新聞の記者にコメントを求められ、「議会と執行部で勉強会をやった。今後も勉強会を続けて行く」とコメントしたところ、9月10日に報道され、それ以後はマスコミから無数の取材を受けることとなった。

それからというもの、反核派による善良な町民を巻き込んだ、いわゆる「反核包囲網」が張り巡らされて行くことになる。

勉強会はまず最初、町内のJA・漁協・婦人会・老人会・PTA連合会など54団体の代表を対象に行った。ところが、案内もしていないサーファーなどが早くも入り込んできたが、私どもは、それらの方々の入場を拒否せず、むしろオープンに勉強会を行った。その人たちは反対の立場で発言を繰り返していた。

私は、勉強会の冒頭、「高レベル放射性廃棄物の最終処分施設の設置可能性を調査する区域」の公募に関しては、国の原子力エネルギー政策の中で位置づけられている事業であり、本町のような小さな町が国家プロジェクトに貢献できる機会はめったになく、また、国の方も「電源三法」に基づいて支援をしようということなので、勉強する価値は十二分にあるのではないか、と訴えた。

勉強会の中で、反対派が問題にすることの1つに、「文献調査に一度応募すれば、処分場の建設まで進められてしまう」と言うのがあった。そうではないと言うことを、資源エネルギー庁の方が国会での大臣答弁等を例に、どのように説明しても聞かなかった。

またある議員は「応募するかどうか住民投票せよ」と主張したが、私は「文献調査に応募する段階から投票する必要はない」とし、「概要調査に入る前なら、やぶさかではない」と回答した。この議員もその時点では、条件付きで文献調査への応募には反対してはいなかった。

年が明け07年1月15日に「東洋町を考える会」、これは隣りの徳島県海陽町の人が代表者の反対組織だが、この会が町民約2000名・町外約2800名の署名を添えて、私には陳情書を、議長には請願書を提出した。議長への請願には、1名以上の紹介議員が必要だが、何と5名の議員が連署しており、正直、私は愕然とした。

今後は、議会に相談する道は断たれたと思ったが、まあ、半数に近い4名の議員が賛成を表明してくれていたので、それらの議員に依拠し、協力し合いながら、何とか乗り切っていかなければならない、と決意を新たにした。

そして、同じ1月15日に、先ほど言った06年3月20日付で提出した文献調査の応募書のコピーを持った20名余りの町民・室戸市民が、多数の報道陣を伴って役場に来て、「誰にも知らせずに、勝手に出した」と猛烈に追及された。そして、その日のテレビ・夕刊・翌朝の新聞で報道され、「独断町長」のレッテルを貼られた。

それからいろいろ考えたが、議員全員協議会が開かれる1月25日に応募するしかタイミングがないと判断した。それは、応募する前には議員全員が集まっている前でまず表明し、そして記者発表すべきだと思っていたからだ。ここでも反対派議員からは、罵声を浴びせられた。

3月20日には、1398名の署名を添えて、放射性廃棄物の持ち込み・調査・処分を禁止する条例の直接請求が出された。自治体としてこのようなことを条例で決めてしまうということは、原発等核関連施設を受け入れている自治体に顔向けの出来る話ではないし、自治体間の信義にもとる行為ではないだろうか。同時に、国策を真っ向から否定することになりかねない。

この条例は、一旦は5対4で可決されたが、「長の再議権」を行使し廃案にした。しかしその後、新町長の下で再び提案され、全会一致で成立している。

3月16日の高知新聞には、昨夜「町長リコールの会」が結成されたとの報道があった。このころ夜は、どこかの集会所で反対派の集会が開かれるという状況だった。結局、反対に回らないと村八分にされてしまうというような、何とも言いようのない異様な雰囲気、異常な状況が作り出されていった。

ここまでくると、私としても、みすみすリコールをされるのを待つより、自ら辞職し、出直し町長選の道を選んだ。

辞職後は、ビラを持ってあいさつ回りをしたが、「この混乱はあんたの責任どね」と言う人もいたし、配ったビラを私の目の前でわざわざ破って私のポケットにねじ込むという行為をした女性もいた。顔の相が変わっていた。

いよいよ選挙の告示日がきて、街頭演説はなかなか聞いてくれる人がいない。しかし、「家の中では聞いてくれている人もいるだろう」との思いを持ちながらやった(5日間で62か所)。終盤になると、見える範囲へ出てきて聞いてくれる人が増えるようになってきたが、いかんせん、時間が足りなかった。

投票日の当日は、私の落選確実が早々と出るであろうと思っていたが、相手の当確と言う形で早々と敗戦が確定した。

全国で初めての私の体験が、これから手を挙げようとする自治体の中で、住民間の冷静な議論が行われるための参考になれば大変ありがたいし、同時に、核廃の処分施設に関する問題が、多くの国民の中に理解される日が1日も早く訪れることを願ってやまない。


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