【日米協定の検証】日米原子力協定の成立 経緯と今後の問題点〈第1回〉 遠藤 哲也 元原子力委員会委員長代理、元外務省科学技術担当審議官 波乱万丈の交渉結果 いまは空気のよう

現在、日米間の原子力協力は順調に発展していて、その中核である日米原子力協定はほとんど意識されず、空気のような存在である。しかしかつては、そうでなかった。今では、知る人も少なくなってしまったが東海再処理交渉(1977年)やMB#10問題(注:使用済み燃料を日本から英仏に移転する場合、1件毎にMaterial Balance#10と称する莫大な資料を作成し、米国議会の了承を得る必要があった)で、関係者は当時大いに悩まされたものである。やや誇張して言えば、当時ははしの上げ下げまで米国の許可が必要であった。

このような事態を解決したのが、88年7月17日に発効した現在の日米原子力協定で、これによってこれまで米国の個別許可の下に置かれていた日本の原子力活動の多くが、包括事前同意によって事実上自由に行えるようになった。しかし、この日米協定は波乱万丈の交渉の結果であって、交渉が絶望的になったことさえあった。交渉は長くとれば10年、交渉それ自身に限っても6年もかかったマラソン交渉であった。筆者はこの交渉に長年にわたって関係し、特に後半には日本側の交渉代表として参加した。

この協定は、30年の有効期限を持つが(自動延長規定があるが、30年後は6か月の事前通告で協定の効力を終了できる)、月日の経つのは早いもので、18年7月16日にはその期限が到来する。問題は、そのあとどうするかである。日米の原子力協力関係を安定した基盤の上に置くためには、延長などで現行協定の大枠を維持していくことが望ましいと思うが、実態は必ずしも手放しで楽観できない。昨今の核拡散、核セキュリティを巡る国際情勢は厳しく、核燃料サイクル(濃縮および再処理)はその焦点である。日本はNPTの非核兵器国の中で米国によって核燃料サイクルが認められている唯一の国であり、この点で世界中の関心の的である。高速炉「もんじゅ」、六ヶ所村の再処理施設が順調に稼働している限り、現行日米協定の改定に際して、米国側からこの2つについて問題提起があるとは思えないが、第二再処理工場等についてはどうであろうか。

しかも問題を複雑にしかねないのが韓国の動きである。韓国は米韓協定によって再処理を禁止されているが、パイロ・プロセッシング方式による再処理開発に積極的であり、2014年に満期となる協定の改正をねらって、米国側に働きかけを始めているようである。12年には韓国は第2回目の核セキュリティ・サミットを主催するが、これも対米工作の一環だろうか。これに対する米側のとりあえずの態度は非常に否定的である。しかし、米国としては日韓両国共に北東アジアの大事な同盟国であり、かつ協定の期限も14年と18年と接近していることもあり、極めてデリケートな立場に置かれよう。

いずれにせよ、現行日米協定満期の18年を控え、現行協定がどのような背景の下に、どのような交渉が行われ、争点は何であったか、難航を極めた米国の議会審議の模様、何とか妥結にこぎつけた成功の原因などについて振りかえってみることは、今後の参考になるかもしれない。この長かった難交渉については、これまで日米双方にまとまった記録がなく、他方筆者の記憶も薄れかかっているので、交渉の経緯を要約するのは容易なことでなかった。従って、足りない点、間違い、思い違い等があるやもしれず、読者の方より是非ご指摘を頂き、より正確なものにしたいと思っている。

原子力産業新聞には、本稿を第1回として数回にわたり、次のような順序で書いていくつもりである。なお、よりくわしくは(財)日本国際問題研究所より、追って小冊子を刊行する予定なので、それを参照して頂きたい。

(1)協定交渉の背景(インドの核実験と米国のカーター民主党政権による核不拡散政策の強化)

(2)レーガン共和党政権の成立とその原子力政策(日米原子力協定交渉の開始―フェーズT)

(3)日米原子力協定交渉(フェーズU)

(4)実質合意から協定正式署名まで(難航する米国内の手続)

(5)署名から協定発効まで(波乱の米国議会審議)

(6)協定交渉を振り返って(気付きの点など)。


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