ここに住んでいるという事実が 大事なんだと気づきました

真言宗豊山派大楽院住職
酒主秀寛さん

2018年10月22日掲載

楢葉町で生まれ育った酒主さん。東京の大学を卒業してすぐに楢葉町役場へ就職し、24年間勤めた後、2017年3月に退職。

実家である真言宗豊山派大楽院の住職となった。

──どうして最初に役場へ就職されたんですか、お寺ではなく

 

 地方寺院は、なかなか一本でやられている方というのは少ないですね。地方寺院の現実というか... 親父は学校の教師をしていました。その姿を見ていたので、自分も社会勉強をしてからでも遅くないと。

 

──酒主さんは役場へ入られて…

 

 まず住民福祉課に配属されました。それから商工観光課、企画課、税務課、住民課、建設課、総務課、教育委員会、そして最後は復興推進課でした。震災の時は、震災予算の組み立てとか、「災害救助費」として避難所でかかった費用を、県を通して国に請求していました。

 

これは博士(はかせ)っていって音符なんですよ、「慎み敬ってサンゼジョウジュウジョウミョウホッシンマカビルシャナ」、こんな感じで読んでいって。書き下しになっているんで、ちょっと難しいんです。これをすらすら読めないとダメという大変厳しい世界です(笑)

──震災時はどちらに?

 

 役場内にいたんですが、たまたま用事があって住民福祉課に来ていたんです。すると住民課長が課員全員を並ばせて、「おまえはどこそこの地域を見回りに行け」「おまえはそっちへ」と指示がありました。私は自宅のあるこの地域は誰がどこに住んでいるか全部頭に入っていたので、この地域の見回りグループに入りました。この地区からは被害は出ませんでした。町内全体では13人ほどお亡くなりになってしまいましたが。

 

 このあたりは海から1キロぐらいなんですが、標高がなだらかに高くなっていますので、大丈夫でした。墓石はかなり倒れましたけど、今はほぼ大丈夫です。避難生活は、いわき市を経由して会津美里町に行きまして、1年弱ですね。それからはもう大変というか、もう全力で走るしかないという感じでした。今役場にいる皆さんもそうだと思います。

 

──住民のみなさんの対応もされて、自分たちも避難していて、お寺のこととかもあって

 

 寺は、何もしてないですね(笑) もちろん親父がいましたが、寺院としての活動はとまってました。立ち入りの際に、檀家台帳や過去帳といった大事なものだけ持ち出したくらいで。本尊とか、位牌とかは置いていきました。いつかは帰ってこられるだろうと思ってましたから。

 

 住職の地位を親父から譲られた日付が、まさに震災の日だったんです。東京の護国寺に事務所があるのですが、そこで2011年3月11日付で任命書が準備されていて、後日送られてくることになってたんです。

2011年3月11日付の任命書

 

──そういうことってあるんですね

 

 そうなんです、驚きました。任命されたのがその日付だったので、ただの偶然なのか。もうちょっと避難者の方々のために働けという意味だったのか、その辺はちょっとわからないですけど...まあ、偶然ですね(笑)

 

──避難はご家族で?

 

 私だけです。妻は、北茨城市にある妻の実家の近くにアパートを借りて、そこに子ども2人と一緒におりました。ですから、最初の1年半ぐらいは別居でしたね。あと、避難指示が解除された2015年9月に私だけ帰ってきて、家族は2017年4月だったので、その間も1年半ですから、大体3年ぐらいは別々ですかね(笑)子どもたちは楢葉の学校に通っています。

 

──奥さんとお子さんが戻られたのは、役場をお辞めになるタイミングで?

 

 ちょうど学校が再開されたので、「わざわざ離れて住む必要もないよね」という話をしまして。

 

 この自宅に住みだした時に、「おれはここに帰ってきたけど、日中は役所で働いているから、寺には誰もいない。鍵も閉まったままで、帰ってきた意味があるのか?」という話をしたときに、「あなたがここにいてくれてるという事実が大事なんだよ」と言ってくださった方がいたんです。そういうことか!と気づきました。

 

 鍵を閉めていようが、ただここに住んでいるんだということを大切にすればいいのかなと思ったら、だいぶ気が楽になりました。その言葉が救ってくれたというか、楢葉に帰ってきたことに間違いがなかったと改めて思えました。

──あの人がいるなら自分も戻ろうかなとか、そういうふうに思う人も結構いますね

 

 高齢の方というか、やっぱり先祖を大事にするとか、昔から多く寺に足を運んでいたという方に対して、ちょっとでもその背中を押すようなことになればいいのかなと。震災影響で離檀というか、檀家を抜けたというのはほとんどないんです。いわき市の方に新居を構えても、お彼岸やお盆には楢葉へ来てくれています。

 

 ですから私も今、寺の環境整備に力を入れていて、車椅子でも大丈夫なように、駐車場からバリアフリーでお墓に行けるとか。通路もアスファルト敷きにしたり、安心して来られるようにしています。

 

私が帰ってきているって知っているので、ふらりといらっしゃる人もいますね。ふらりと来ていただくことは一番大事なのかなって思います。用事もないのに来るという、それが本来のお寺なんじゃないかって。

 「来る人には楽しみを、帰る人には喜びを」ということに気を付けています。嫌だったら来ないじゃないですか、寺って。先祖の墓参りだとか、塔婆を依頼されに来るとか、嫌で来るものではないので、安心を持って帰ってもらうとか、相談に来られたら、「わかった」とか、「安心しました」とか、そんなことを持って帰ってもらえればいいのかなと思っています。

 

──これから楢葉町はどうなっていくと思いますか?

 

 私はあまり悲観的には考えておらず、できることをできる人がやればいいのかなと思っています。太鼓のサークルとか、英語のサークルとかいろいろあるんですよ、楢葉町には。一人一人が自分の思っていることを、それを普通に教えていって、それを学びたい人が学べばいいんじゃないかな。全ての人が先生になり得るので、背伸びせずにできることをやって、そういう仕組みさえしっかり回っていけば、自然とコミュニティは復活していくのかな、なんて思っています。

──続けているうちにだんだん広がっていく、最初は細々だったのが徐々に… というのはありますよね

 

 そうですね。背伸びせず、できることを確実にやっていけば、自然と回っていくのかなと思いましたね。ゆっくりと一歩一歩ですが。

 

 役所の人間は本当に大変なんで、体を壊さず、無理せずやってもらいたいなって、心から思います。いつでも応援します。本当に体に気をつけて頑張ってほしいですね、みんなには。

 

 私もできないなりにいろいろ試みたりはしているんです。人がほとんど集らないものとかもありましたけど(笑)

 

──いろいろお寺でやってらっしゃいますよね

 

 最近、人が来てくれるのは、あれです、「寺ヨガ」。これまで3回(取材時《2018.10.2現在は10回》)やりました。宗教法人ですので、ちょっと見方を変えると、「檀家に取り込もうとしてるんじゃないの?」と警戒されるかもしれませんが、そんなねらいは全くありません(笑)

 

 地域でできることって何かって考えたとき、うちでできることはこんなことなのかなと。ある程度の広さの場所もありますし。最初私が企画したのは、「護摩」のワークショップといって、火が上がったところでひたすらお経を唱えるというイベントをやったんですけど、5人しか来ませんでした。もっとも6人しか座れないんですけど(笑) ただ妻から「ちょっとハードルが高すぎるんじゃない?」と指摘されて気づいたんです。寺というものはそもそも敷居が高い、と。「普通に来て、楽しめるもの」を考えたときに、じゃぁ、ヨガでもやってみるかということになりました。

 

──ゴマはキツいですがヨガなら私でも参加してみようか、となります(笑)

 

 動きやすい服装で、どうぞお越しください。来る人には楽しみを、帰る人には喜びを(笑)

photo & text: 石井敬之