富岡町
ふくしま ましまし相当かかるんですよ、芽を出して花が咲くまでは
「ミュージックサライ」経営
遠藤武さん
2018年12月06日掲載
2018年7月、富岡町で憩いのサロン&カラオケのお店をオープンした遠藤さん。
一度は町に戻ることをあきらめ、晩年は郡山で過ごすと決めていたものの、購入したばかりのマンションを売却して自宅を再建し、隣には町民や町内で働く人々が交流できる場を造った。
今年の4月にここへ戻ってくるまでは、郡山に7年近く避難していました。
最初は川内村へ避難して、それから郡山の「ビッグパレットふくしま」に行って。
2千数百人いましたからね。通路っていう通路、みんな布団敷いて寝ていた。そこに3カ月いて、みんないろいろな仮設住宅に移転していったんです。
私は、郡山市の富田仮設住宅に行きました。仮設で一番の大所帯で460人いました。行政区はばらばらですから、顔と名前を知ってる人は少数でしたね。あとはほとんど会ったことがない人。
そういう中で、役場の勧めがあって自治会を設立して。次の年の4月に最初の役員改選があって、なぜか私を推薦する人がいるんですよね。それからいろいろありましたけどね、自治会長をやってきました。
昨年の9月に自治会は解散しまして、自由の身になったんで「郡山で楽しい生活を」と思っていたんです。仮設住宅に3年いて、郡山に分譲マンションを買いましたんで、「もう郡山で生活して終わりかな」と。
── 「富岡に戻ろう」と決心されたきっかけは
住宅がそれなりの損傷を受けていたんで、解体の申請をしていたんです。
そしたら、その順番が意外と早く回ってきたんですね。去年の10月に、工事会社から「解体の工事が終わりましたので、現地確認、立ち会いをお願いします」と。それで富岡に来ましてね。
ある程度予想はしてましたけど、さら地を見たら、やっぱりガクっときましたね。なんにもないわけだ。当然ね。
「ああ、このままでいいのか」と、「とりあえず、小さな家でもいいから」ということで、だんだん気持ちが変わってきたんですよ。
町内に最低限の施設は整備されてますんで、ぜいたくしなければ、ちまちまと生活はできます。
ただ、家を建てて、ここで生活しただけでは、あんまり意味がないし、できるんだったら、自分の趣味の部屋、音楽が好きだったんで「マイ・オリジナル・オーディオ・ルーム」という感じで。それが原点です。
それで「カラオケも置いたほうがいいんじゃないか」とか、だんだん広がって。「みんなが集まって、歌を歌って、夜は酒飲んで」そういう場にしようと。
── 店名はどうして「サライ」なんですか
谷村新司の名曲がありますよね。
私はカラオケのレパートリーはいっぱいあるんだけど、それまで歌ったことなかったんですね。ある程度曲は知ってたんだけど。
自治会で3.11の追悼セレモニーを毎年やっていて、追悼に際して曲を選んで2~3曲かけていたんですよ。4年目かな、「サライ」を選んだんですね。
歌詞が我々の心情にマッチしたというか、夜の森の桜の情景がラップするんですね。
それで、店名は「サライ」にね。
歩いて来られるところに、いっぱいマンションや寮ができて、企業さんもいっぱいおりますんで。そういう方たちへ、まず最初に表敬訪問させてもらったんですね(笑)
地元の人はもともと、夜のまちに出かけて、お酒を飲んで、歌を歌うという人はいないんですよ。
まあ、聞きつけて何度か来ている人はいますけど、現状は企業の方が多いですね。昨日も10人ぐらいの団体が来て。
営業を始めたのは始めたんですが、看板は掲げていても、商売は第一目的じゃないんで、収益はなくてもいい。ここに来て交流を図ったりできる場になればいい、と思っていますから。
夜、ご飯を食べる場所がないんでね。「食事、用意してもらえませんか」という申し込みもきます。「こちらに任してもらえれば、つくりましょう」というんで、大体そういうパターンが多いです。
私も料理するのは嫌いじゃないんで、お客さんの要望におこたえして(笑)
こういう店をやるために保健所の届けが必要で、食品衛生管理者の免許を取りました。
── 「遠藤さんが戻ったなら、自分も戻ろうかな」と考える方もいらっしゃると思います
願望はあるかもしれないですね。まるっきりないんじゃなくて、それはありますよ。自宅をリフォームして住んでいる方も何人かいますしね。
いま、町に還って来てる地元の人は700人前後かな。この近くに公営住宅があって、まだ随分空いてますよ。
小中学校が再開していて、15人かな。子どもたちをここに呼んで、ちょっと遊んでもらうというか、みんなで音楽を聞いたり、そういう場を持ちたいなとは思っているんです。
ここで富岡町の老人クラブが立ち上がりましたんで、老人クラブと生徒さんとの交流、世代越え運動とか、七夕のイベントとか、いろいろな交流はやってますよ。
いまの富岡の状況というのは、本来の富岡町の復興とは違うんですよ。
走ってるのはダンプとか工事車両で、買い物に行って見かけるのは町民ではなくて。これは、富岡町本来のにぎわいじゃないんですよ。
以前は、いわきとか、郡山とか、そこから業者の皆さんが通っていたわけでしょう。
去年、避難指示が解除になって、とにかく、空き地がどんどん増えていきますから。そこに、アパートを建てたり、貸したり。住まいができるということになれば、当然移転して、近くて便利なここから通勤するという。
これから、富岡がどんなふうに変わっていくか、ちょっと予測つかないですけどね。ただ、その進捗は遅いと思いますよ。急激にどんどんと変わらないと思うんです。
町外に避難している人は、大体、家を建てていますからね。そこを売却して帰ってきて、またさら地に新しい家を建てて、それは大変なエネルギーですからね。住み慣れたら、なかなか腰を上げられないでしょう。
正直、私も2年前まではそうだったから。帰ってくるつもりはなかったんだから。
── 常磐線が動いて夜の森の避難指示が解除されれば、変わってくるでしょうか
外の壁に、夜ノ森駅のパネルを貼ってあるんです。
夜の森は桜の名所だけど、夜ノ森駅はツツジが名物だったんです。除染でばっさり切ってしまったから、あの光景はもうないんです。
ただ、株だけは残してあるんで。何年後になるかね、相当かかるんですよ、あそこから芽を出して花が咲くまでは。
でも、ちゃんと根は張ってるし、再生能力がありますからね。
photo: 山田 敬
text: 加藤 芽久美