富岡町
ふくしま ましまし震災で歴史を分断するべからず
阿部浩一さん
福島大学 人文社会学群
行政政策学類 教授
2018年01月05日掲載
生きることは、知ること。――などと言われるまでもなく、誰もが自分のアイデンティティや、自分のルーツのようなものを知りたい、大切にしたいと思っている。それらを知るカギとなるひとつが「歴史資料」と呼ばれるものだ。阿部先生は震災以来、被災地域の資料を保全する活動に精力的に取り組んでいる。
阿部先生:
歴史資料と聞いて一般にイメージされるのは、和紙に墨で字が書いてあって、読めないのだけれどもなんとなく古そうだという、いわゆる「古文書(こもんじょ)」と呼ばれるものでしょう。最初に保全活動を始めたのが歴史研究者だったものですから、レスキューの対象は古文書が中心になるんですね。
ところが今回のように、被災した家屋から所蔵品を緊急に助け出しましょうとなった時には、古文書以外の雑多なモノ、民具(養蚕関係で使用する道具類や一昔前の農機具、かまどで炊いていた頃の調理器具など)も「捨てるにはしのびない」となりますし、さらに言うならば、蔵にあるものは「個人の思い出に関わるもの=家の歴史を語るもの」ばかりですので、ありとあらゆるものが対象となります。
もちろんどれも家の歴史を語る大切な資料なのですが、それは同時に地域の歴史を語ることにつながっていきます。最近では、古文書とかに限定したイメージを与えてしまう「歴史資料」ではなく、「地域資料」という言葉を使ったりすることもあります。地域の歴史や文化を語るものをまとめて保全していこうという活動なのです。活動が広がっていくと、対象が際限なく広がっていきます。私たちの専門分野である歴史学だけではとてもカバーできず、民俗、美術などの専門家の協力が不可欠です。
富岡町の地域資料保全を支援
2015年8月に富岡町と福島大学は、歴史・文化遺産の保全に関する連携協定を締結した。富岡町の歴史・文化等保存プロジェクトチーム(以下、歴文PT)が町内で資料の保全(レスキュー)を行う。その活動を福島大学が支援する形だ。
阿部先生:
私たちは、歴文PTがレスキューしてきた資料を1点1点整理し、目録を作ります。富岡町は所蔵者から寄託ないし寄贈を受けたものを保全しますので、目録が預かり証の代わりになるわけです。目録と簡単に言っても1点1点記録しますので、かなりの時間と労力がかかります。
さらに言えば、大学は教育機関であると同時に研究機関であるわけですから、レスキューしてきた資料がどういう内容で、それが町にとってどんな意味があるのかという研究成果を発信していかなければなりません。
研究成果として阿部先生は、2016年10月に福島大学附属図書館で企画展を開催した。今まで富岡町がレスキューしてきた資料の実物を展示し、それがどういういわれのもので、そこから町の歴史のどんなことがわかるか、ということを簡単にまとめて紹介したものだ。同時に、資料整理をする学生の活動記録写真も展示し、活動内容がわかるようにした。
阿部先生:
私たちは震災の当初から、中通り・浜通り地方を中心に活動を続けてきましたが、思ったほど福島県内での活動の認知はされていません。今までもメディアが取り上げて下さって新聞記事になったとか、時にはNHKのテレビやラジオなどでもいろいろと話をさせていただく機会を頂きましたけれども、実際ふたを開けてみると、期待したほど活動の認知は進んでいないですね。
ここ数年はいわゆるSNS、facebookページを開設しています。いろいろな形で窓口を用意することによって、活動の存在や大切さが知られるようになり、地域の資料が守られていくようになれば、私たちも大変うれしいです。
震災から始まる歴史なんて…
福島県では今、震災の記録を後世に伝えるため「震災アーカイブ」作りに着手しようとしている。だが阿部先生は、長い地域の歴史から「震災」だけを切り出すような取り上げ方に警鐘を鳴らしている。
阿部先生:
富岡町の関係者が危惧していることは、原子力事故の以前と以後が切り離されてしまって、なにかというと富岡町の歴史を原子力事故という文脈で語られてしまうことです。富岡町にはそれまでの何千年にもおよぶ人々の歩み、生活の跡というものがあって、その蓄積の上に2011年に東日本大震災が起こったけれども、それは長い歴史の中の一つなんですよね。2011年で歴史の流れを断ち切ってはいけません。
震災以前と以後で歴史が切り離されるとどうなると思います? 「あの町の歴史は?」と問われた時に震災に全部収斂してしまうんですよ。震災以前の資料がきちんと残っていなければ、その町の歴史が震災から始まることになってしまう。それはやっぱりおかしいです。震災は現在進行形のことですが、いずれ将来的には歴史の一部となり、過去や未来とつながっていくものになります。ですから、震災資料にだけ特化するのではなく、「震災アーカイブ」を地域全体の資料のひとつととらえるべきです。
2017年3月7日、富岡町は震災資料の保全に関する条例を成立させた。
阿部先生:
これはおそらく全国でも初めての試みじゃないかと思います。私たちが働き掛けたわけではありませんよ(笑) 町の関係者の発案と努力の結果です。条例ですから拘束力が懸念されるでしょうが、なにも町民の財産を強制的に収用するとか、そういうわけではなくて、ある種「宣言」に近いような形です。町として震災資料をきちんと保全していこうという姿勢と責任を明確に打ち出したものと言えます。これは、一つの福島県流のあるべき姿、モデルケースを打ち出す好例になると思います。
資料保全はいずれどこでも大事になってくるものなんです。過疎化の進んでいる地域も、高齢化が進んでいる地域も、日本中どこだってそうなってくる。
逆に言うと、日本というのはそれだけ江戸時代などの旧い資料が残っているんです。世界的にみても桁外れなぐらい古文書が大量に残っている。これまで先祖が遺してきたものを、今の世代が散逸させてしまっていいのかという、現代の私たちに突き付けられた課題であり責務でもあると思っています。
こうした歴史資料保全活動をやっている「史料ネット」と呼ばれる団体は全国で20くらいあって、各地でそれぞれの地域の実情に応じて活動を展開しています。災害があろうがなかろうが資料保全は大事なことなのですが、こういうことがあって初めて資料保全の大切さを自覚させられたのが被災地です。被災地からこうした取り組みを発信していくことによって、そうでない地域にも少しでも意識を持ってもらえればありがたいかなと思います。
同じ東北の被災地でも宮城県はずっと昔からこういう活動に取り組んでいます。宮城は大きな震災を何度も経験していますから。宮城はもう10年以上前から私たちのようなことをずっとやっている。私たちは宮城のような先行する地域からいろいろなことを教わって、資料保全の必要性とかやり方とかを学びながら、私たちなりに取り組んできたのです。
福島の震災記録の特殊性
阿部先生:
宮城や岩手の場合は津波を被って水損した資料が大量に発生したため、緊急対応が強く求められました。ですから全国からいろんな人が支援に入り、洗浄、カビとり、乾燥、さらには修復まで、何年もかけて作業に取り組みながら、資料を保全していきました。
一方、福島では、原子力事故で立ち入れなくなってしまったことで、宮城や岩手が震災直後の混乱や復興事業の中で、ガレキとして処理されて十分保存できなかった震災の記憶を伝えるものが、何年もそのままの状態で放置されていた。だから3年4年5年たっても、探そうと思えば探して収集することが出来たのです。これは福島だからこそできたことなのかもしれませんね。
例えば、津波を被ってぐにゃぐにゃになった道路標識は、福島だったから5年たってもあのまま残って収集できたわけですけれども、宮城や岩手でしたら「震災の爪痕を遺すから保全しよう」とはならなかったのではないでしょうか。おそらくはそんな余裕のないまま、ガレキとして処理されてしまったことでしょう。福島では一時避難所も当時の姿のまま残されていました。幸か不幸か福島だからこそできたことなんです。
福島は、「震災+原子力事故」という人類史上無いような経験をしたわけですから、その経験を後世に伝えていこうとする「震災アーカイブ」のような取り組みはもちろん理解できます。ですが、そこで震災以前の歴史まで断ち切られ、「災害によって私たちは何もかも失ってしまった」と落胆するのではなく、「災害を乗り越えて新しいものを創造していく」というスタンスを持つことが、復興には必要ではないでしょうか。
徐々にでも福島県内で歴史資料保全活動が広まっていって、たとえば50年たった時に、あの震災を機に福島県はどこよりも地域の歴史や文化を大切に伝える県として大きく変わったんだと言われるようになれば、本当の意味で震災を乗り越えて復興したということになると思うんです。
(本記事は、2017年5月23日に公開されたものを再レイアウトしたものです。 )
photo: 阿部先生提供
text: 石井敬之