広野町の魅力? おくゆかしいんですよ(笑)
出たがらない、外に。

NPO法人 広野わいわいプロジェクト 事務局長
磯辺吉彦さん

2018年02月21日掲載

町ににぎわいを なりわいを

福島第一原子力発電所から南へ20kmという距離にある広野町には、震災後、数多くの企業やボランティアが支援を申し入れた。が、当時町役場は震災対応で人手もなく大騒ぎしており、支援の申し出の受け皿となる窓口がまったく機能していなかった。「これはなんとかしないと」ということで町民有志が組織を立ち上げたのが始まりだった。
「町ににぎわい・なりわいを取り戻す」をスローガンに、企業・団体やボランティアの協力を得て、人々の交流を生み出す定期イベント「ひろのパークフェス」の開催、新設された防災緑地を利用して県内外の企業・人々と森づくりを行う「プレゼントツリー in ひろの」、ふくしまオーガニックコットンプロジェクトと連携した「オーガニックコットン栽培」や、広野らしさが伝わる手作りの「商品開発」などを行っている。

磯辺さん:

2016年4月にNPO法人として正式に発足しました。震災以降、継続して広野町のにぎわいを取り戻すために来てくださるボランティアの方が大勢いらっしゃいます。そこで首都圏と広野町を結ぶボランティアバスを運行し、1泊2日や日帰りのボランティアツアーを実施しています。
本日お越しいただいた皆さんも、これから私どもと一緒にコットン畑の収穫やコットンベイブの製作をしながら、ともに広野の未来を語り合う予定です。リピーターの方も多いんですよ(笑)

海岸沿いに設定された防災緑地の一画に、福島県地域在来の広葉樹5種(スダジイ、アカガシ、クヌギ、コナラ、エノキ)を植える。

2013年、NPO法人ザ・ピープルと地域の農家が協力し、広野町内でオーガニックコットン栽培を開始した。これは2012年春に始まった「ふくしまオーガニックコットンプロジェクト」の取り組みの一環だという。福島では風評被害から多くの生産者が離農し、遊休農地・耕作放棄地が年々増加し続けていた。そこで塩害にも強い綿を有機栽培で育て、収穫されるコットンを製品化・販売する一連の取り組みで、地域に活気と仕事を生み出し、福島から新しい農業と繊維産業を作り出そうとしているのだ。

磯辺さん:

ボランティアバスは町内をぐるっと回ります。震災の前はこうだったのが震災であそこのビルまで津波が来て、といったスタディツアー的なものです。今後さらに、「こういう形で復興しています」とお見せできればいいなと思っています。広野町をもっともっと知って頂きたいですね。

早朝7時に新宿駅西口を出発したボランティアバスは、10時半には広野町に到着する。

帰還して取り組むものを

町全域が緊急時避難準備区域に指定され、全町民が一時避難を余儀なくされた。2011年9月に緊急時避難準備区域の指定が解除された後も、町民の帰還は進まず、2017年2月現在、町内で生活している町民は事故前のおよそ6割(約3,000人)に留まっている。子育て世代の帰還が進まないこと、離農が進んでしまったことなどから町は「にぎわい」「なりわい」を失いつつあるのだ。
それでも磯辺さんたちは、帰還した人が広野町で何に取り組んでいいか迷わないよう、「なにかモノを作って、それを販売して、1つの仕事を作ろう」と、地域産業6次化(*)に取り組んでいる。

磯辺さん:

広野で採れたオリーブの葉を粉末にして、それをキャンドルに練り込んで「オリーブ・キャンドル」を作ったり、広野のゆるキャラ「ひろぼー」を開発してキャラクター商品を販売したり。これが今、売れてるんです(笑)

*福島県の豊かな農林水産資源を基盤として、これまで1次・2次・3次の各産業分野に就いていた人が自らの強みを生かして他産業にも分野を拡大し、または相互に連携・融合しながら付加価値を向上・創造する取組みのことを、「地域産業6次化」と呼んでいる。

帰還した人のうち賛同してくれた人に、地域の独自資源を有効に使った商品づくりに参加してもらい、それを仕事として、生業(なりわい)として継続できるようにしたい。自分で作ったものが販売されて、少なくともお金が手元に残るような事業とする。こうして雇用を生む手仕事を一つ一つ積み重ね、帰還した人が困らないようにしたい。同時に、作っている町民同士のグループができて、新たな交流が生まれるはずだ。それが磯辺さんたちの願いだ。

栽培するコットンは、在来種の茶綿。「希望の綿」と名付けられている。

収穫したオーガニックコットンの綿と種で「コットンベイブ」という小さな人形を作る。

家族が近くで一緒に暮らせるような広野町だった

広野町は、温州ミカン栽培北限の地と呼ばれ、その温暖な気候から「東北に春を告げるまち」とのキャッチコピーを掲げている。

磯辺さん:

広野町の魅力? 奥ゆかしいんですよ(笑) 出たがらない、外に。それが、人間味のある一番いいところなんでしょうけども。自然がいっぱいあって、あまりモノが建っていない田舎の町なんですけど、とにかく山があって、海があって、川があって、そういう自然の中で、ある程度、地場の産業というか工業があって、そこで働けて、どこか外に行って働くなんていうことのない、家族が近くで一緒に暮らせるような広野町だったですから。それが本当の、一番いいところじゃないですかね。

大家族で住んでいた広野の人たちが、震災後は避難先で核家族としてバラバラに暮らしている。そうした人々が、昔の広野の良さを思い出して帰って来てくれることを、磯辺さんは待ち望んでいる。

磯辺さん:

私らも、ちょっとでもいいからその手助けができるような組織になれば、「やってよかったな」と思えるでしょうね(笑)

震災から7ヶ月後の2011年10月には、JR常磐線が広野駅まで運転を再開した。

(本記事は、2017年3月13日に公開されたものを再レイアウトしたものです。 )

photo: 加藤芽久美
text: 石井敬之