東京防災設備、高度な技術で火災の早期検知・早期消火を実現
東京防災設備株式会社は、米軍基地の防災設備に関わるメンテナンスで創業し、1959年に設立した。当初から沖電気工業株式会社の協力会社として火災報知設備の設計や施工を手がけてきた。
1969年に完成した日本で初めての商業用原子力発電所の敦賀発電所1号機の時は、米国ゼネラル・エレクトリック(GE)社から消防庁に防災設備会社の推薦を求めたが、書式全般が英文であったため、各社とも受注出来なかった。そのため仕方なく当時米軍の消防用設備等のメンテナンスを実施していた東京防災設備が指名を受け、英文による仕様書や図面を理解した同社が推薦され受注した。
日本で初めて原子力発電所の消防用設備等の設計と施工を手がけ、原子力発電所の防災設備の基盤を構築したのが同社である。その徹底した仕事ぶりに発注元のプラントメーカーであるGE社から感謝状が贈られた。「燃えてから消すのでは遅い。燃えるときに消す」というポリシーのもとで開発された自動消火ロボットに各産業界から注目を集める。
なお、同社は、国内の20基に余る原子力発電所の工事を完成させ、台湾やフィリピンの原子力プラントの防災設備やセキュリティ設備も手掛け、完成させている。2019年に設立60周年を迎える同社。高度な防災技術を生み出す研究・実験施設(長野県佐久市)の様子と、防災・防犯への取り組みについて白石秀夫専務取締役、赤津薫専務取締役、藤原敏男取締役に話を伺った。
国内で初めて原子力発電所に消防用設備等を設計・施工
2011年3月11日に起こった東日本大震災で福島第一原子力発電所が大きな打撃を受けた。それ以降、原子力規制委員会により、地震や落雷などの自然現象による火災が発生しないよう火災防護対策が求められている。火災防護設備自体が、凍結、風水害、地震による地盤変異などあらゆる事象に耐えうるものでなければならない。世界各地の原子力発電所の防災技術を熟知する東京防災設備は、プラントメーカーや消防装置の技術を問わず対応できるノウハウがある。そのため、現在、国内のほぼ全てのBWR原子力発電所には同社の火災防護システムが導入されている。
我が国の原子力産業において、国内初を飾ったのは、商業用原子炉の第1号となった敦賀発電所1号機だけではなく、原子力発電所向けの消防用設備等もであった。日本でノウハウを持った企業がいない中、東京防災設備が大健闘をして見せた。プラントメーカーであるGE社にとっても、日本で1基目を手がけるとあって、世界各国の技術を取り入れた肝入りのプロジェクトであったに違いない。
東京防災設備はGE社から発行された英文の図面と仕様書に沿い、いくつもの海外プラントで知見を取り入れながら、沖電気工業の協力を得て、国産の消防用設備等を納入した。もともとは米国の原子力発電所で採用された実績がある海外製の消防用設備機器で設計したものの、当時、戦後の経済成長期を迎えた日本では、国を挙げて国内製造の起用が推進されていたこともあり、東京電力(株)福島第一原子力発電所第1号機から3号機まではGE社が指揮をとり、4号機からは国産に切り替えるという大きな舵を切ることになる。あらゆる火災の可能性をつぶさに分析し、沖電気工業との共同開発に取り組んだ。
同社の骨身を惜しまない努力は一気に国産の消防技術の基盤を押し上げることとなった。その結果に、当時のGE社のサイトマネージャーだったドン・ファーガソン氏が感銘を受け、国内の企業で唯一、東京防災設備に感謝状を送り、その意を表したことは同社の技術力を裏付けるものとなったのである。
赤津専務取締役は、「東京防災だけがもらった感謝状です」と、額に飾った感謝状を手に「日本で消防法そのものが完全ではなく整備されようとしていた時代でしたので、並々ならぬ苦労もありました。けれども、そこにGE 社が理解を示し、海外の技術を並行して設計の仕方から考え方に至るまで評価してくださいました」と話す。
現在、同社のノウハウは、原子力分野だけではなく、東京都庁議会棟、世界貿易センタービル、羽田空港のターミナルビル、ホテルや高層ビル、ケーブル洞道や半導体工場など様々な施設で活かされている。
創業から根付く「燃えてから消すのでは遅い。燃えるときに消す」ポリシー
東京防災設備の代表取締役社長4代目に就任したのは、同社を創業、設立した赤津行男氏だ。なぜ初代の社長にならなかったのか−。ここに同社が技術基盤を築き、成長を遂げた理由がある。赤津社長が、初代社長に招聘したのは木下俊煕氏だった。木下氏は豊後日出藩主の初代から数えて18代目にあたる後胤(子孫)で豊臣家の分家であり元子爵だった。赤津社長の親友でもあり、政界、経済界、実業界での人脈が広く、同社の事業を多方面に展開するにあたり、功績を残した人物である。この木下氏との出会いは、第二次世界大戦の戦火で住む家を失った赤津氏が木下子爵邸に居候として招かれたこと、そして、戦後に木下氏が戦犯として巣鴨の刑務所に収容されていた時には、赤津氏が木下氏の家族を献身的に守ったという経緯があり、親交が深かった。2代目の社長は木下氏の紹介で大日本水産の役員をしていた矢崎郁氏が就任。元厚生大臣の鶴見祐輔氏の甥で交友関係も広かった。同社が沖電気工業と関係を築いたのも2代目の矢崎氏の時代である。3代目に、沖電気工業で営業部部長を定年まで勤めた中村重雄氏を招いた。
いよいよ4代目に自身が就任することを決めたのだが、それまでは歴代の社長とともに財界での人脈を広げつつ、現場力を培いながら、沖電気工業の名刺を持って、火災報知設備と消火設備の営業活動に精力的に奔走した。赤津社長にとって1965年に受注したパレスホテル及び十条製紙の全工場、那須の御用邸の防災設備は思い出深く、「わずか12秒で火災を報知するデモを披露したことが昨日のことように思える」と同社の設立50周年記念誌で明かしている。同社の強みである早期検知・早期消火、「燃えてから消すのでは遅い。燃えるときに消す」という姿勢はすでにこの時代には根付いている。
長野県佐久市に設けた実験・研究施設
1975年、米国のブラウンズフェリー原子力発電所で火災が発生した。東京防災設備はその数ヶ月後に、GE社から専門家を招き、被害、火災が起きた原因、防災対策及び米国原子力規制委員会(NRC)の方針などについて、顧客である電力会社とプラントメーカーである日立製作所と東芝のために講演会を開いた。知識を自社で蓄積するだけではなく、関係各社に情報提供をすることで、施設や環境を守る防災の重要性を訴えてきた。「欧米では、過去の経験や失敗を徹底的に検証し、安全対策を立てています。日本も同じ考え方で実践しなければなりません」と赤津専務取締役は強調する。
同社はこれまでに防災製品として、ロボットによる「インテリジェント・アフェックス」や「フライング・アフェックス」などの自動消火装置を開発してきた。火災が発生したら自動的に火災場所を数秒で発見・特定し、1分以内に消火する。こうした技術を生み出す拠点として、長野県佐久市に佐久平研究所と佐久平テック実験所を設けている。佐久平は、標高1100メートルで真冬はマイナス17度まで下がることもある。「佐久平を選んだのは、青森県六ヶ所村の使用済み燃料再処理施設と同じような過酷な環境下でも誤作動や消火ミスがない徹底した研究と実証実験をするためです」と白石専務取締役は話す。実際に原子力規制庁の火災対策専門官の実務研修を毎年受け入れたり、新潟県で発生した中越沖地震の時は、電気事業連合会から約30人を招き、感知器ごとに管理された自動火災報知設備や自動消火装置の実演、起こりうる火災事故への対策など、相談や要請に応じて様々な実験を披露した。
火災検知から消火まで わずか5秒を実現
同社の自動消火装置を含む火災防護システムが優れているのは、設置するために既存の施設を施工する必要性を最小限に抑える設計ができることだ。後付けしやすいため、「安全のため」とはいえ以前に比べるとコストを気にする傾向が強い事業者にも合理的な提案をしながら設計し、導入することができるという。同社は、国内外の火災防護機器を熟知しており、OEM で開発した製品を同社のブランドで販売もしている。どこのメーカーの製品であっても、同社は消防用設備等のエンジニアリング会社であるため扱えることから、顧客の要望にあった柔軟な提案ができる。
「以前は地震と火災は同時に起きないと考えられてきた。3.11以降は地震と火災は同時に起きることを想定し、消防用設備等にも耐震が求められています。弊社では、加振試験をして 地震に耐えられる設備を納入しております」(藤原取締役)。
東京防災設備は、消防法に基づく消防用設備等を設計して現地に収め、試験・検査とメンテナンスをすることを生業とする。3.11以降は、消防法以外に原子炉等規制法に基づく火災防護の審査基準ができ、原子力発電所内にプラント特有の原子燃料の冷却や放射性物質の閉じ込めを可能にしつつ、安全機能を有する構築物、系統及び機器に対して火災防護設備を設置するなどの要求もある。「原子力プラントは消防法に基づく消防用設備等を法令通りに行った上で、新規制基準にも適合し、審査を受けて許可を得なければなりません。原子炉等規制法に基づく火災防護設備を有効かつ効率の高い提案をしていきたい」(白石専務取締役)。
国内トップクラスの火災防護技術を誇る東京防災設備。今では、火災検知から消火までわずか5秒という高速化も実現した。設立から、早期検知で早期消火を目指す技術開発に向き合う姿勢はこれからも変わらない。
お問い合わせ先:企画部 TEL:03-6256-9316(直通)