チェルノブイリ原子力発電所事故から30年――“世界の原子力安全のためのチェルノブイリの遺産”国際フォーラムに参加して(その1)
日本原子力研究開発機構特別顧問
日本宇宙フォーラム理事長
文部科学省参与 坂田 東一
(はじめに)
去る4月26日は、1986年にチェルノブイリ原子力発電所4号炉の爆発事故が起こってから、丁度30年の日だった。ウクライナではこれを機に、4月21日から23日まで国際会議が開催された。会議の名称は、“世界の原子力安全のためのチェルノブイリの遺産”国際フォーラム(International Forum“Chornobyl’s Legacy for the Nuclear Safety of the World”)である。この国際会議は、チェルノブイリ事故の経験に鑑み、世界の原子力安全の一層の向上を目指す議論をするためである。また、同時に犠牲者を追悼し、併せて事故の風化を防ぐためでもある。主催者は、国立キエフ工科大学と国営企業チェルノブイリ原子力発電所で、後援機関として、ウクライナの外務省、環境天然資源省、立ち入り禁止区域管理庁、そしてウクライナ科学アカデミー、UNESCO等が名を連ね、会議の名誉議長にクラフチューク初代大統領(1991年12月~1994年7月)及び第2代・第3代のクチマ元大統領(1994年7月~2005年1月)が就任した。実際クラフチューク元大統領は22日の本会議に出席されて、参加者の一人であった私は、福島事故との協力やウクライナ情勢について言葉を交わす機会があった。本コラムではこの国際会議の様子や私のチェルノブイリ事故との関わりなどをご紹介したい。
(一旦は断った“国際フォーラム”への招待)
昨年秋にこの会議への招待状が届いた時、これは私が前駐ウクライナ大使(2011年9月~2014年10月)であったが故の招待だろうと思ったが、講演の依頼もあったため、一旦は断った。原子力の仕事を本格的にしているわけではなかったし、日本全体で考えればもっと適任者がいると思ったからだ。しかし、ウクライナを離任する時、今後も両国関係の発展にできる範囲で協力したいと話したこと、また、昨年来日本原子力研究開発機構(JAEA)の仕事を少し手伝っていることから、この機会に福島事故後対策にも関わっているJAEAの研究者にチェルノブイリの実態を勉強してもらうことにも意味があると判断し、考え直して参加することにした。実際、私のキエフ行には2名のJAEA研究者に同行してもらった。
(4回目のチェルノブイリ原子力発電所見学)
国際会議初日の4月21日はチェルノブイリ原子力発電所の見学の日であった。私にとっては4回目である。同原子力発電所はキエフの北、約130kmに位置するのでキエフ出発は朝8時前、会議参加者のうちの希望者がバス4台に分乗した。ウクライナは西部の一部地域を除いて平坦な国で、穀物畑と森林が広がっている国と言っても良い。バスはその中を延びる国道を北に向かって走る。4月下旬は森林の緑も明るくなりはじめ春の息吹が感じられるが、まだ空気は冷たく、冬の名残が強い。チェルノブイリは原子力発電所から30km圏内が法律で立ち入り禁止区域になっており、バスはその地点で一旦停車、皆パスポートなどで身分検査を受ける。漸く出発から約2時間後に発電所に到着した。
最初の訪問施設が、使用済み燃料(SF)の中間貯蔵施設だった。1号炉から3号炉は実際に発電をしていたので、そこから発生するSFを乾式貯蔵するためで、建設途上の施設だ。キャスクを並べて収納できる長屋のような施設が両側に300mぐらいも延びていただろうか。私はこの施設の見学は初めてで、ちょっと驚くような施設だ。4月初めにウクライナのポロシェンコ大統領が訪日し、安倍総理と会談したが、総理は日本がこのSFの中間貯蔵施設の建設を支援するため、約350万ユーロの追加拠出をすると表明した。日本がチェルノブイリ支援のために拠出した資金は、これまでの累積で約1億9千万ドルにのぼる。
次の見学が事故炉のチェルノブイリ4号炉であり、建設中の主に新シェルターである。今のシェルター(旧石棺)は老朽化による劣化が進んでいるため、その上から主にスチール製の新シェルターで覆うのである。2012年の4月26日にヤヌコーヴィチ大統領(当時)の出席の下、同じ場所で新シェルター建設の起工式が行われた。外交団が招待され、私もその一人だった。当然ながらその時は何もない広場があるだけだったが、あれから4年、今回は全く様子が違った。想像を絶する巨大なドーム状のシェルターが完成に近いように見えた。幅が257m、高さが108m、奥行きが162mもある新シェルターはその前に立つとすべては視界に入らない。それだけ大きい。総経費も21億ユーロ超という。説明役の技術者は、年末にはレールの上を4号炉に向けて時速10mで移動を開始し、旧石棺の上から同炉にかぶせ、それから外界との隙間を埋める工事をし、そして竣工は2017年の11月だと説明した。そうなれば、4号炉からの放射性物質の環境放出の抑制がより確実になり、核燃料含有物質(FCM)取り出しや旧石棺の解体に向けた作業も可能になるとみられている。新シェルターの耐用年数は100年、内部構造物の健全性を保つために湿度を40%以下に保持する機能を有するという。100年の間に旧石棺や4号炉の安定化、FCMの取り出しなどが課題になるので、説明役にどのように進めるのかと質問した。それは新シェルター建設とは別のプロジェクトなので、別途政府が考えることになっている、という味気ない答えが返ってきた。
3番目の見学先が、ゴーストタウンとなったプリピャチの町である。プリピャチはチェルノブイリ原子力発電所から北に4kmに位置し、事故当時は5万人が住む原子力発電所従業員の町だった。事故後3日以内にすべての住民は町から避難し、二度と戻ることはなかった。住民避難のために1100台のバスが動員されたが、そのうちの1台の若かった運転手が私のキエフ駐在中の専属運転手だった。従って、彼は時が来ればチェルノブイリの英雄として、記念碑に名が刻まれることになっている。町に入ると、我々のバスは周りが鬱蒼とした森となった朽ち果てたアパート群を横目に走り、いつものように中央広場前に停車した。私はプリピャチの町の訪問は3回目だったので、これまで見ていないところまで歩いて行ってみようと思った。中央広場を取り巻く文明宮殿もホテルもレストランもすべて見捨てられた残骸と言ってよい光景である。建物の外観はもとより内部も壊れ、そこから何本もの木も生えてきている。これらの建物を通り過ぎて更に奥に歩いていくと錆びついて車輪もなくした“ゴーカート”の運転場が目に入ってくる。よく映像報道される場所だ。その約100m先には事故の翌日開業の予定だった“観覧車”が風に晒されている。結局観覧車は一度も営業することはなかった。4年前にこの観覧車の下に生えていた苔の放射線量を計ると約5μSv/hで、キエフの公邸の50倍くらいだった。観覧車を更に通り過ぎて、初めて“奥の森”に入って行った。400mくらい歩いただろうか、横長100m位のスタジアムのような施設が見えてきた。すぐそばまで近づくと確かに座席が10段くらい並んだスタジアムの観覧席のようだ。木製と思われる座席は腐ってあちこちが壊れ、座席の態をなしていない。案内役に尋ねると、ここはサッカー場だったという。私が、でもグランドが無いじゃないかと尋ねると、いや今我々が立っている森となってしまったこの場所が30年前はグランドだったとの答えが返ってきた。この瞬間に、私は福島のことを想った。福島では除染や時の経過による放射能の減衰に伴って、居住制限が徐々に解除されている。人が戻っていけば、町も生活も産業も再興する。しかし、戻らなければ、町は町でなくなり自然に戻るしかない。福島の30年後はどうなっているだろうか。(続く)
チェルノブイリ原子力発電所事故から30年――“世界の原子力安全のためのチェルノブイリの遺産”国際フォーラムに参加して(その2)