コラム Salonから 「キューバの背景にあるエネ資源問題」
文豪ヘミング・ウエーが愛したキューバの保養地バラデロを初めて訪れたのは、1989年11月のことだった。首都ハバナから南へ約120キロ、カリブ海に面したエメラルド・グリーンの海と真っ白な砂浜の美しさは今でも忘れられない。
昨年末、キューバとの国交正常化交渉の開始をオバマ米大統領が発表した時も、真っ先にバラデロを思い浮かべた。建設中だったスペインやイタリアなど欧州資本のホテルやコテージは繁盛しているだろうか。
フィデル・カストロ首相(当時)は「労働者諸君、観光は21世紀最大の産業である。われわれが輸出するのは空気であり砂浜であり水だ」と意気盛んだったが、約150キロの近さにある大市場アメリカと国交断絶がつづく限り発展は頭打ちだろうと感じた。
オバマが「失敗して来た時代遅れの手法を終わらせる」と対キューバ政策の失敗を認めたことは、大国アメリカの勇気ある発言だった。半世紀以上経済制裁を課しても崩壊しないのだから、賞味期限切れも同然だった。私見では、むしろ経済制裁がキューバを反米で結束させ、カストロの社会主義政策の失敗をカムフラージュする要因にさえなっていると思った。
キューバを訪れたのは東欧の変革がどのように及ぶかを考察する取材だった。先行きを暗示するように、直前にはベルリンの壁が崩壊した。またゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(当時)のハバナ訪問で、群衆から上がった「ペレストロイカ パラ クーバ(キューバにも改革を)」の声がテレビ放映時には消されたとの話も聞いた。対ソ関係も微妙な時期に来ていた。
その後もキューバを何度か訪れ、「瀬戸際のキューバ」といった連載を書いた。しかし結局、キューバはソ連崩壊後も生き残った。
理由の一つは、冒頭にも書いたアメリカの経済制裁が人々を「反米愛国」で固めたことがあるが、それ以上に後ろ盾の存在が大きいと私は思う。社会主義諸国が頼りにならなくなったキューバの新たなスポンサーが、同じ中南米の石油・天然ガス大国ベネズエラだった。
キューバの最大の弱点はエネルギー資源のないことだ。試掘も行っているが成果はない。もし石油があれば、キューバの発展も違ったのではないか。ソ連からの優先的石油提供がなくなり、ハバナの高速道路から車がほとんど消えた時もあった。中国から自転車を大量に輸入したのもその頃で、傑作なアネクドート(風刺小話)も生まれた。
「アロー」と中国に電話したカストロに「ご飯はないよ。自転車の代金だってまだなのに」と中国がはねつける。スペイン語でご飯はアロス。キューバの苦しい食糧事情と気前の良かったソ連と比べて、抜け目ない中国を皮肉ったものだ。
2000年、キューバは原油日量5万3000バレルを特別の優遇条件で受ける協定をベネズエラと結ぶ。その後のキューバとベネズエラ、中でもカストロとウゴ・チャベス大統領の連帯が国際社会にしばしば物議を醸したのは周知の通りだ。国内貧困層への手厚い優遇策も、カストロ顔負けの激しい反米的言動も、豊富な石油があってこそではあった。しかしチャベスは病に倒れ、中南米一の医療水準と言われるキューバでの治療も甲斐なく、2013年3月に死去した。
チャベスという恐らく最後の頼みの綱を失ったキューバが今後、いかにサバイバルして行くのか関心を抱いていた矢先の正常化交渉開始のニュースだった。21日には米外交当局者がハバナ入りをする。相互に大使館を設置し、貿易と旅行の規制も緩和する方針が発表されている。共和党が多数派となった議会がどう出るか、フロリダを中心とするキューバ系アメリカ人コミュニティの動向も無視できないが、レガシー(遺産)を作りたいオバマは正常化に賭けるだろう。思えば政治家として最も尊敬する大統領ケネディのキューバ・ミサイル危機(62年)に端を発した敵視政策に終止符を打つことに、歴史的使命を感じているかもしれない。
(産経新聞客員論説委員 千野 境子氏よりご寄稿、1月22日付号掲載)