コラムSalonから 「日本外交の150年」から令和の外交を考える
今年は外務省が創設されて150年。先日、東京・六本木の外務省外交史料館の前を通りかかると、記念の特別展示「日本外交の150年」が行われていた。
外交はもはや外務省の専売特許ではなくなったが、明治からこのかた日本の外交活動の中心が外務省だったのも確かで、外務省150年は日本外交の150年でもあるわけだ。外務省所蔵の史料を通して、明治2(1869)年の外務省創設から現在までの日本外交の道のりを辿っている。
ガラスケースの中の古式ゆかしい条約文書や小道具はいかにも歴史を感じさせ、条約第1号となったオーストリア=ハンガリー帝国との修好通商航海条約(明治2年9月14日)には、初代外務卿(外務省の長官)沢宣嘉の花押があった。花押は平安時代中期から使われてきた署名の形で外務省草創期ならではだ。
同条約は不平等条約としても知られる。開国間もない日本は手練手管の欧米諸国から見たら赤子も同然で、不平等条約を結ばせるのは朝飯前だっただろう。だから条約の改正交渉は新設外務省の重要な仕事ともなった。そして25年後の明治27年7月16日、日英通商航海条約が調印の運びとなり、これにより条約交渉は大きく進展したといわれる。ここにはヴィクトリア女王の端正なサインがあった。
思わず釘付けになったのは、昭和20年7月20日の駐ソ連大使、佐藤尚武が外務大臣、東郷茂徳に宛てた終戦意見電報である。
《満州事変以前ヨリ余リニモ外交ヲ軽侮シ国際関係ニ無頓着ナリシコトカ即チ今日ノ禍ヲ招キタル原因タリ(中略)防共協定以来ノ我対外政策ハ完全ニ破綻セリ…本使ハ率直ニ今次戦争ノ将来絶望トナリタル事実ヲ認識スルヲ要ストナスモノナリ(中略)無益ニ死地ニ就カントスル幾十万ノ人命ヲ繋キ以テ国家滅亡ノ一歩前ニ於テ之ヲ食止メ七千万同胞ヲ塗炭ノ苦ヨリ救ヒ民族ノ生存ヲ保持センコトヲノミ念願ス》
電文はまだまだ続く。政府の所信に反することを知りながらこれを言う以上、自分は罪の甚大さを自認するし、敗戦主義者として非難されても結構、どのような責任を問われても受けよう…など等。初めて目にする極秘電報。それにしてもこんな気骨ある外交官がいたとは。
もっとも先の戦争では開戦、継戦、終戦のさまざまな局面で、少なからぬ人々が反対や異議申し立てをし、和平を試みた。問題はそれにもかかわらず、沖縄、広島、長崎の悲劇に至るまで誰も破局を食い止めることが出来なかったことであり、そこに失敗の本質がある。終戦工作ひとつとっても後手に回り、時すでに遅く、情勢判断は甘かった。
見学者は私と男性1人だけというシーンとした館内で、しばし歴史に浸り立ち尽くして外へ出ると午後の日差しが眩しかった。
さて新しい令和の時代の日本外交はどうあるべきだろうか。今や先進国と途上国とを問わず自国第一主義とポピュリズム(大衆迎合主義)が幅を利かせ、国際協調や自由貿易の戦後国際秩序は旗色が悪い。
日本がこの風潮にどっぷり染まっていないのは救いだが、そうなる兆しがまったくないわけではない。賢く折り合い、国益に繋げていくことが求められているのだと思う。「永遠の同盟はない。あるのは永遠の国益のみ」とは英国政治家の名言である。電報の「外交の軽侮や国際関係への無頓着が禍を招いた」との文言も切実に響く。
また多様なプレーヤーをどれだけ持てるかも外交力の内だろう。10月22日の「即位礼正殿の儀」に191か国・国際機関が参加したことに、私は日本の底力のようなものを改めて感じた。日本は国連加盟国より多い195か国と外交関係を有し、しかもその殆どが出席し、平成の御代替わりの際の160か国・国際機関から大幅増ともなった。政治と一線を画しつつも、令和の時代に皇室外交が日本と国際社会のために役割をますます増して行けば素晴らしい。
さらにラグビー・ワールドカップに続いて、オリンピック・パラリンピックというスポーツ外交も国民外交とともに重みを増している。令和の時代は「外交の国・日本」を目指したい。
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