【第48回原産年次大会】福島セッション:「ふくしまの未来予想図」

大会最後を飾る福島セッションは、モデレータによる問題提起から始まった。

○福島大学特認研究員 開沼博氏 「福島の現状報告」
福島県の現状を数字で見ていきたい。震災前に福島県で暮らしていた人のうち、今でも県外に避難を余儀なくされる人の割合は2.3%である。人口増減率は震災前水準に戻ってきており、いわき市や郡山市など拠点的地域へは人口が集中している。コメの収穫量は震災前の85.8%に回復しているが、農業が完全に回復していない原因としては、避難で耕作できないことに加え、福島県産品の価格が下がっていることがある。また年間1000万袋におよぶコメの全量全袋検査結果で、2014年に法定基準値を越えたのは0袋だった。

○日本創成会議座長/元総務相 増田寛也氏 「人口減少時代を乗り越えて―地域から福島の将来を考える―」
 日本の人口は2008年の1億2808万人をピークに減少に転換しており、中位推計で2050年に9708万人となる見通しである。構成年齢もピラミッドから逆三角形に近いかたちで推移している。医療保障や介護システム、年金など社会保障制度が維持できなくなる。人口減少の原因としては、20~39歳の若年女性の減少と地方から大都市圏(特に東京圏)への若者の集中の2点がある。推計では2040年には全国896の市区町村が「消滅可能性都市」に該当する。このうち523市区町村は人口が1万人未満となり、消滅の可能性がさらに高くなっている。福島県内の自治体はこういう地域に分類される面があったが、震災でより加速されたと言える。
一方で、直近の被災市町村の住民意向調査においては、大熊町、双葉町、浪江町などいくつかの市町村において帰還の意向を有する住民の割合が増加している。福島の現状を踏まえつつ、将来に向かって一歩一歩確実に進んで行くために必要なこととして、生活の利便性や医療・福祉を確保するコンパクトシティ計画やインフラ整備などの「まち」、商工業および農業や再生可能エネルギーの発展を軸とするイノベーションコースト構想に基づく「しごと」、豊かな教育や文化を享受できる環境におかれる「ひと」の3点を相互に補完させながら充実させることが大切である。「まち」が成熟するには相当な時間がかかるが、まずは仕事と人の回復をめざしてそれを支える仕組みづくりを整備し、「まち」のかたちを作りあげていくことが大事だ。2040年に福島のまちづくりの主役を担っていくのは今の中学生や高校生、あるいは生まれてない人かもしれないが、こうした人たちを支える側に回っていきたい。震災を受けなかった全国の地方でも人口が減り高齢化が進む地域がいっぱいある。福島は今、まちづくりについて将来の日本を考える上で良い知恵が出てくる状態だ。

続いてパネリストによるショートプレゼンテーションが行われた。

○浪江町総務課財政管財係副主査 小林直樹氏 「復興の現場から見える風景とこの時代に生きる私たちの役割」
浪江町は、福島最東端にあり、大堀相馬焼や豊富な地酒と魚介類などの特産品、なみえ焼きそばで全国のB級ご当地グルメの頂点「B-1ゴールドグランプリ」に輝く焼麺太国として知られてきた。
しかし、2011年の東日本大震災で被災し、町民の避難や役場機能移転などで多くの負担を強いられた。現在も全町民が避難対象となっており、残してきた家屋も町内への立入りの制限のため、カビやネズミなどで建物は大丈夫でも室内が破損してしまっている例が多い。また、データではわからないが、津波翌日以降に本格捜索が予定されていたのに避難指示が出たため捜索できず助けられなかった命の存在や、国や県から情報がなく高線量の区域に移動してしまうなどの避難支援策の欠如による無用な被ばくといった“心”の被災もある。
それでも浪江町では2017年3月の避難解除をめざし、再生ロードマップのもと、昨年からは除染が始まるなど、ふるさと再生へ向けて動き出している。震災を経て、失う前はわからなかった家族や友人、働く場、お祭り、自然、安心などがそこにある「当たり前の幸せ」は、地域のみんなでつくっていたことに気付いた。町として復興に向き合うにあたり、一人ひとりが暮らしを再建していくこと、どこに住んでも浪江町民であることだと改めて再定義した。一人ひとりの暮らしについては判断が割れやすく、無理な同一化によって相互が苦しむ風景が生まれている現状を踏まえると、多様性を確保し選択する自由を保証する仕組み作りが大事だと感じる。

○モデル/タレント 植木安里紗氏 「福島と共に活きる」
 小学校からの芸能活動を経て、福島県の工業高校を卒業し地元の大手工場に就職して3年経った2011年に震災が起こった。この時「何かしたい、もっとできることがあるのでは」との意識が芽生え、人生の転機を迎えた。同年8月よりフリーランスモデルとして一人で活動することを決意し、以降地元を発信するというこだわりを持って「2012年ミスうねめ・こおりやま」、「2013年ミスピーチキャンペーンクルー」、「福島県観光物産交流協会ライズ福島コンシェルジュ」、ブライダルモデル・雑誌・CMなどで活躍してきた。2014年からは郡山市の事務所に在籍して、10月には歌手としてもデビューしており、表現の幅を広げていこうと思っている。大きな目標となるが福島を背負えるタレントを目指しており、福島については「ここが私の活きる故郷」との強い思いがある。大好きな地元福島の良さを伝えるため、福島に住みながら活動することを大切にしている。風評被害もある中、自分が笑顔でいることを通して福島が元気であることをわかってほしい。

○福島大学行政政策学類2年 木村元哉氏 「福島と僕」
 福島県広野町出身で、広野町の中学校を卒業する時に震災にあった。初めてのスクリーニング検査には怖いと感じたし、単に山などで遊ぶのがこんなに難しいことだったのかと感じた。千葉県の親戚や埼玉県の姉妹都市に避難した後、いわき市の高校に編入した。高校では「BEYOND TOMORROW」東北リーダーズサミットへの参加を通じ、被災地3県の課題が全く違うことに気づいた。また大人も子どもも同じ目線に立って考える「こども未来会議」に参加し、避難者にアンケートで地元に戻るか問う設問で「戻ると住むということは違う」という答えが今も印象に残っている。大学では、さまざまな団体を福島に招き考えてもらうエクスカーションや国連防災世界会議でのプレゼンテーションなどの活動を行った。オーストラリアでの短期留学では福島の現実を知ってもらおうとしたが、日本に行ったら熱が出たのは原子力事故の影響だという考えを変えない人にも出会った。
原子力については、産業、雇用、お金のローテーションを地域に生み出すものだと感じている。事故後には原子力発電所の廃炉に賛成してきたが、原子力発電が生み出した地元での雇用力や地元企業との連携効果などを考えると即時廃止には賛成できない。原子力を廃炉にするからといって、原子力研究そのものをやめるのも反対だ。原子力は使い方を間違えなければ医療や食品などで生活を支えるものだからだ。
自身は、福島で多くの出会いがあってこそ今がある。それぞれが支えあい助け合って、自分のできることをやっていきたい。

○株式会社夜明け市場取締役/NPO法人TATAKIAGE Japan共同理事長 松本丈氏 「復興を越えて、新しい福島をつくる」
自身はいわき市出身で事業立ち上げのためUターンした。いわき市は1960年代半ばより石炭からの産業転換を図ってスパリゾートハワイアンズを設立したほか、海も山もあって日照時間が長いので「サンシャイン」を冠にしたトマトなど農産物も多い。今は10位圏外になってしまったが、震災前には、福島県は住みたい田舎として全国5位にランキングしていたこともある。
震災後にはいわき市が復興の拠点となっており、避難者や作業員など約3万人の人口増となっている。こうした中で、ホテルの予約満室や病院の混雑、交通渋滞や補償格差などでいろいろな摩擦も起きているのが現状だ。2015年地価公示では、全国の住宅地価格の上昇率で、トップ10すべてがいわき市内となっている。
こうした中、被災してしまった飲食店を集めて事業再開の場所を提供して飲食街をつくりたいと思い、「夜明け市場プロジェクト」を立ち上げることにした。駅前の一等地で集積力を活かしたブランディングができ、風評被害に苦しむ農産物の消費地になるとともに、福島から元気を発信する復興の拠点として新しい街づくりのできる場所を探し、多くの候補地を検討した。築45年の寂れたシャッタースナック街「白銀小路」をリノベーションし、「3.11」より約7か月後の2011年11月、「夜明け市場」は2店舗からオープンした。現在では11店舗(近々12店舗目がオープン)へと拡大し、被災して店舗をなくした人だけでなく、UIターンなどでいわきを盛り上げようという志のある人や脱サラして夢を叶えたいと思う人が全国から集結する場としてコミュニティを形成している。
売上を伸ばして夜明け市場を卒業する店も出始めてきた。相双地区出身者が再起をかけて夜明け市場で9席から始めた焼き鳥店は、常に満席の大人気店となり、2014年11月に近所に25席の規模で移転し、再オープンした。また、2014年7月には、フランスのニースにて当時日本人最年少でミシュランの一つ星を獲得した松島啓介シェフがプロデュースする「エコール・ド・ニース」が夜明け市場にオープンした。復興を超えて世界と繋がる拠点もでき、新たな価値を創造している。
2013年2月には、一人でも多くいわきで地域課題解決のためのアクションをするプレーヤーを生み出したいという思いから、新たにNPO法人「TATAKIAGE Japan」を設立した。何かしたい“思い”があっても、地域に入って活動するのは意外と難しい現状を反映し、地元キーマンや行政などの「地域」と地元に戻って地域貢献したい人などの「新規プレーヤー」をつなぐ、ネットワークの橋渡しやハブ機能を担う存在として始動。2013年7月には、夜明け市場2階を改装してコワーキングスペースも開始した。また、「地域のために何かやりたい」という中高生を地域の大人や慶応大生がサポートするコンテスト形式中期プログラム「FROM PROJECT(通称:ふろぷろ)」もスタートした。
それぞれの分野のノウハウを結集させて地域に愛される高品質な商品開発を行う中でいわきのおみやげ品など6次化商品を開発する、生産者+料理人+販売者の団体「いわき“食LABO”プロジェクト」や、全国各地で生み出される高品質な産物をより身近に見聞きし、味わうことが出来る、東京と地方を食で繋げる拠点として、2014年9月に池袋WACCAにオープンした「Lupeキッチンスタジオ」など次々と新しい試みを立ち上げている。
このように、震災があったからこそ、危機感が生まれ、本気で地域に向き合う人がたくさんいる。原発事故はなかったことにできないし、決して元通りには戻らない。だからこそ、震災前より素晴らしい福島をつくりたいと思っている。次の世代にも頑張っている姿を見せていきたい。

後半のパネル討論では、前半のショートプレゼンを受け、福島や自分自身の課題について、また震災後に出てきた身の回りの成功事例や福島の希望の芽、今後の展望――などについて意見交換が行われた。

小林:浪江町民に「住民が復興の主体と思うか」と聞くと9割が手を挙げるが、「自身を復興の主体と思うか」と聞くと1割しか手を挙げない。個人の行動をいかに復興につなげていけるかが課題だ。浪江町では、農業の再開のめどが立たない中で、行政でなく各地の農家が主体となり、次の世代につないでいかなければという思いを根底として、自分たちで保全していく動きがある。また、一時帰宅するたびに荒廃した様子を見て心が離れていくことがつらく、少しでも風景を残したいという考えから自分の土地だけでも自力で除染し農業を再開する人もいる。単純な経済活動や営利目的を超えた考えの中で希望の芽が生まれてきている。

木村:原子力の被害は長崎や広島も受けている。この2つがどのように復興したか自分で勉強しながら、両地域との関係を深めていきたいと思う。福島では高校生たちも自らさまざまな取り組みを行っており、下の世代からもエネルギーをもらうことが多い。自分としては今後も国内外への福島の魅力を伝え続けていきたいと思っている。また、震災について思い出したくない、話したくないという人もいるが、それも表現の一つとして、個人に対する理解を深めていってほしい。

植木:仕事で取材に行く中で地元の方の本音を聞ける場面が多いので、メディアを通して伝えていくことが自分の役割と思っている。震災の影響で行き場を失い、今も保護されている犬や猫などがいっぱいいることにも目を向けてほしい。また、福島に戻ってきて活動する企業など、地元愛の強い人との多くの出会いがあり、絆の深い仲間ができた。震災を通して地元が一つになったと思う。

松本:年配の人は、各方面を調整して計画を作ることに終始している印象がある。それも大事なこととは思うが、批判をおそれずにまず行動してみれば、結果を見て納得してくれる場面も多いので、若い人に任せてみることも大事だ。情報発信力のある農業者がメディアに出るようになり、個人のつながりをどんどん広げていくなど、若手で震災後にやり方を変えてうまくいっている例がある。

開沼:IMG_1145メディアが福島のイメージを固定化している面もある一方で、福島から自分たちで新しいメディアを使いながらイメージを変えていく動きも出ている。課題先進国の日本の中で、福島はさらに課題先進地として、いろいろなイノベーションを起こすことが、これからの世界にとって資産となる。今日集まった人たちのように福島で活躍している方はいっぱいいる。いろいろなかたちで福島を見続けてほしい。