原子力産業新聞

風の音を聴く

ジャーナリストとして国際報道の最前線を、時に優しく、時に厳しく、歩み続ける筆者によるコラム。──凛と吹く風のように。

日西交流史話に想う大震災

13 Jul 2014

日本とスペインは昨年6月から今年7月まで、日本スペイン(日西)交流400年という記念すべき年だった。

交流が2年に亘ったのは、記念となる伊達政宗の仙台藩・支倉常長を団長とする慶長遣欧使節団が1613(慶長18)年10月に牡鹿半島の月の浦を発ち、翌年10月、スペインのセビリアに到着したからである。

大型洋式帆船サン・ファン・バウティスタ号に乗っての1年にも及ぶ長旅。常長は日本人として初の太平洋・大西洋横断の快挙を遂げるとともに、スペインで受洗し、国王フェリーペ三世やローマ法王に謁見した。
だが運命は暗転する。すでにキリシタン弾圧を強めていた徳川幕府の下、帰国した使節団の偉業はタブーと化し、常長も2年後、恐らくは失意のうちに亡くなった。

こうして慶長遣欧使節団は歴史の闇に埋もれる形となったが、実はもう一つ、使節団をめぐって知られざる史実があった。

それは東日本大震災が日西交流400年の2年前に起きたように、使節団派遣の2年前にも三陸大地震と大津波が発生し、甚大な被害を出していたことである。偶然の一致と片付けるにはあまりにも運命的な合致に、大震災の後、東北の人々は深い関心を寄せ、使節団への関心もあらためて高まったのだった。

私はこの史話を去る3月末にセビリアで行われたスペイン日本研究学会による400周年記念国際会議に参加した際に、シンポジウム「慶長遣欧使節団から四百年 日本と日本人」で「使節団と慶長の三陸大津波について考える」と題して紹介した。

使節団のことは研究者にお任せし、慶長三陸大津波を語ることで、3年前の東日本大震災を忘れないでほしかったのと、あれ以来寄せられている支援への感謝を伝えたいと思ったのである。

残念ながら慶長大津波の資料は極めて少ない。しかしこれまた奇しくも使節団と行動を共にしたメキシコ副王答礼大使で探検家のセバスチャン・ビスカイノが仙台地方を測量中に遭遇し、目撃記録がスペイン国立図書館に残っているのだ。偶然以上の見えざる縁を感じざるをえないと私は発表で述べた。

ビスカイノは被災者たちが苦難の中、来訪者を厚遇することにも注目し、感謝している。どんな状況にあっても客人を迎えるおもてなしの心が、17世紀の東北地方にすでに有ったことが分かる。それは世紀を重ね、世界に感動を与えた東日本大震災被災者たちの自制心や思いやりの心にも繋がっている。

スペインでも東日本大震災への関心は高い。同国で最も権威ある賞の一つとされる皇太子賞が福島第一原子力発電所事故の初期対応に当たった消防、警察、自衛隊関係者に「福島の英雄」として贈られている。それでも史話は初耳という人が殆どだった。いや、実は日本でも「400年前にそんなことがあったの?」と驚く人がまだ少なくない。

しかし史話はさらに慶長遣欧使節団に新たな光も当てている。石巻にある使節船ミュージアムの館長、濱田直嗣氏ら研究者たちから、政宗が使節団を派遣したのは慶長大津波からの復興・再生を願ってのことではなかったか、との見方が出されているのである。

私は学者でないのでその妥当性は分からない。しかし大震災を経験したからこその見方であり、また今、復興に懸命に取り組む東北の人々ならではの実感として、良く分かる気がする。言えることは歴史的遺産の継承と探究を疎かにしてはいけないということである。それが寺田寅彦の言う「正しく怖がる」に繋がることではないかとも思う。

最後にシンポジウムが行われたのはセビリア近郊のコリア・デル・リオだった。帰国しなかった使節団員たちの子孫といわれるハポン(日本)姓の人々が暮らす町として知られ、パネリストにもハポン氏が3人参加した。使節団が航行したグアダルキビル川を臨む公園には支倉常長像が立ち、毎年3.11には立像の前で、スペイン・ハポン・ハセクラ・ツネナガ協会の人々を中心に慰霊の追悼会が営まれている。

千野境子Keiko Chino

Profile
産経新聞 客員論説委員
神奈川県横浜市出身。早稲田大学第一文学部卒業後、産経新聞社入社。マニラ特派員、ニューヨーク支局長、外信部長、シンガポール支局長、論説委員長などを歴任。最新刊は「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」。

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