チェルノブイリで考えたこと
28 Apr 2016
史上最悪の原発事故から30年になるのを前に3月下旬、ウクライナの首都キエフの北約100キロにあるチェルノブイリ原子力発電所を初めて訪れた。
ウクライナ政府は5年前に放射線量が下がったとして同地域に一般の立ち入りを認め、今では年間1万人を超える人々が内外から訪れる。米誌フォーブスの「世界一ユニークな観光地」の命名に賛否はあるが、現地を見て初めて分かることが少なくないことも確かである。
ウクライナは「欧州のパン籠」と言われてきた。その名の通り広大な穀倉地帯を擁し、チェルノブイリ原発も海岸沿いにあるのが大半の日本と違って、内陸奥深くに位置する。地平線の向こうまで何時間走ってもつづく畑や白樺林、人家もまばらな風景を車窓から眺めていたら、ふとソ連(当時)が当初、事故を隠そうとしたことが思い出された。
この大地の奥深くなら隠しおおせるとでも思ったのだろうか。しかし大気中に大量に放出された放射能により北欧がいち早く事故を把握、ほどなくしてソ連も認めるに至ったのだった。
原発はまるでモンスターのように突如灰色の姿を現す。実際はガイドが近づいたことを教えてくれるので突然ではないのだが、周囲を睥睨するその巨大さゆえに、突然のような印象を与える。
爆発した4号機の隣では新しいシェルターの建設が進んでいた。長さ162メートル、幅257メートル、高さ108メートル、重量は3万トン超。年内完成の暁にはレールを使って異動させ老朽化した石棺ごと4号機を覆う。シェルターの耐用年数は100年、言い換えれば廃炉まで100年の長期も想定内ということだろう。
ここでも私はかつて観たドイツのドキュメンタリー映画「アンダー・コントロール」を思い出した。それは原発解体のプロセスを客観的かつ克明に追った異色の映画で、人間が作り出したものでありながら、それを解体して行くことの難しさを強くアピールするものだった。まして4号機は普通の原発ではない。暴走し、爆発した原発で、溶け落ちた燃料が大量に飛散している。これらをどう処理するか、普通の人間にはもう理解と想像を超える世界だ。
しかし私は、困難が人間をさらに強くするという一種の逆説を、期待も込めてだが、チェルノブイリもまた示すことが出来るのではないかと思う。災難や事故があってよいというのではない。しかし人間はそのことで萎縮したり絶望したりしているだけの存在ではないはずだ。人類の歴史はそのことを示している。
原発作業員たちはもちろん、ランチを食べた、立ち入り禁止の30キロゾーン内にあるカフェの従業員も、その他の原発事業関係者も皆が淡々と任務をこなし、business as usual(いつも通り)で進んでいる。
新シェルターには1000人を超す人々が働いているそうだが、国籍はウクライナだけでなく、欧州やロシア、トルコなど多国籍にわたる。チェルノブイリで働く動機や目的はさまざまだとしても、言わばここには世界が結集していると言えないだろうか。 そしてその間にも原発をめぐる科学技術は進展し、廃炉の抱える課題にも風穴がきっと開いていくに違いない。
だから一連のシェルター建設作業を担うフランスのコンソーシアム「ノバルカ」のロゴマークの中に日の丸が見当たらないのには、一抹の淋しさを覚え、残念であった。新シェルター建設計画(SIP)は欧州復興開発銀行(EBRD)の下、米欧とともに 日本もこれを担保する21億ユーロの資金拠出に加わっている。しかし「福島」を抱える日本は、チェルノブイリに対してG7の一員としてのお金だけに留まらない、もっと積極的な関与が出来ないものだろうか。それはチェルノブイリだけでなく「福島」のためにもなるだろう。そうした気運が官民ともに日本国内で高まっていくことを期待したいものだ。
原発から約3キロ、かつて従業員やその家族たち5万人が暮らした町プリピャチも訪れた。明日に向かう新シェルターと違って、ここでは時が完全に止まったまま、過去が封印されている。全住民が避難し、廃墟と化して行く中で、ガイド氏の言葉を借りれば「動物たちにとっては天国」となっている。
また立ち入り禁止ゾーンには、事故後1年経った頃から当局の制止を振り切り故郷に戻ることを選んだサマショールと呼ばれる人々が、160人ほどいる。今では政府も希望する人々の帰還を認め、電気やガスを供給し、食糧など生活物資も週に1度、物売りが来るので大きな不自由はないらしい。大半は高齢者だそうだが、週末には親戚や子供たちも訪ねて来る。
生まれ育った大地と切り離されて生きることが人間にとっていかにつらいか、サマショールは身を持って示している人々だと言える。
3月も末とあって、ウクライナ北のチェルノブイリも一帯の樹木や草花が芽吹き始め、自然は早や早春の気配が一杯だった。たくましい自然の生命力は、やがてこの廃墟を飲み込んでしまうかもしれない。しかしプリピャチの町を記憶し続けることは、ウクライナに留まらず21世紀に生きる私たちに共通する責任ではないかと、後ろ髪を引かれる思いでチェルノブイリを後にした。