原子力産業新聞

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ジャーナリストとして国際報道の最前線を、時に優しく、時に厳しく、歩み続ける筆者によるコラム。──凛と吹く風のように。

「安心・安全」が不安を増幅する?

08 Jul 2021

政治家、企業人、一般人を問わず日本人は一体いつから、「安心・安全」をこんなにも乱発するようになったのだろうか。

右代表で菅義偉首相の場合、東京オリンピック・パラリンピックの「安心・安全な大会を実現するためにコロナウイルスの感染対策をしっかり講じる」に始まり、ワクチン接種や災害、事故、景気、原発再稼働など等、あらゆる場面で「安心・安全」が使われ過ぎて、またかと聞き流されるか、逆にホントに大丈夫なのかと不安を増幅させるかのどちらかで、もはや本来のメッセージ力が失われているように思う。

安心と安全は言うまでもなく、まったく別物だ。安心感とは言うが安全感とは言わないし、安全性とは言うが安心性とは言わない。この例が物語るように、安心は気持ちであり主観的、対して安全はある種のバロメーターであり客観的と言える。

どんなに安全を徹底しても安心するかどうかには個人差があり、「私は安心出来ません」と言われればお終いである。そう考えれば、安心と安全をセットのように気軽に一緒に出来ないはずだ。もっとも菅首相が「五輪は安心と言うのは難しい」などと言おうものなら、それこそ上を下への大騒ぎになりかねないのが、現在の日本の社会でもあるだろう。

しかしこれはやはりおかしい。かつては、消費者問題であれ原発問題であれ「安心」と「安全」は分けて考え、安易に一緒にしないという常識が働いていた。少なくとも私が関わった2010年頃までの審議会とか有識者委員会などではそのようであった。

もちろん「安心・安全」は望ましいし、理想的だ。しかし現実にはそれほど簡単な話ではない。それなのに意識、無意識を問わず使われ過ぎた結果、効果半減どころかマイナスの事態さえ生じているのではないだろうか。

その第1は安心・安全を過度に重視した結果、行政、ビジネスを問わず日本の社会に失敗を恐れ、リスクを回避する傾向が強まったことだ。「ワクチン敗戦」との声が聞かれる。未だ国産ワクチンは出来ず、供給もペースを上げれば追い付かず、中止・再開とお粗末だ。理由は多々あるにしても、ワクチン開発や接種がリスクを伴うことと無縁ではないだろう。

2は「安心・安全」は誰かが与えてくれるものという錯覚を招き、依存心や依頼心を強めたことだ。だから「安心・安全」が得られないと、その責任を他者に転嫁する。不安や不満は皮肉にも反って増大することになる。

3はそうでありながら、矛盾したことに、少なからぬ人が実は「安心・安全」を本気で信じているわけではないことだ。内心は「そうは言っても無理ではないか」と思っている。一種のバランス感覚で当然なのだが、一方で言葉が額面通りに信用されないことは、政治家であれば政治不信に繋がり、民主主義の劣化を招く。そもそも安心は信頼抜きには得難いものなのだ。

最後に第4はこれらのツケでもあると思うが、「安心・安全」の過度の尊重は社会から活力を奪う。失敗を恐れ、リスクを取るのが嫌なら、何もしなければ良い。何もしなければ失敗もないし、リスクにも直面しない。しかし社会は低迷、停滞を余儀なくされる。昨今の学生が留学したがらない、商社マンが海外へ行きたがらないなどの傾向はその兆候のように感じる。

「安心・安全」の東京オリ・パラ実現のため、無観客で実施する可能性も高まる一方、東京に先立ちサッカー欧州選手権決勝(12日)を行うロンドンの場合、デルタ株の蔓延で一日2万人を越す感染者を出し、しかも増加傾向にありながら、英政府は6万人超の観客動員の方針を諦めない。ドイツやイタリアの開催地変更を求める声にも、ジョンソン首相は「安全かつ確実に(安心にではない)開催するつもりだ」と言ってはばからない。

英国を見習おうというのではない。文化も歴史も社会構成もすべて異なる以上、日本は日本の選択をする他ない。しかし「安心・安全」と言う前に、安心は一旦脇に置き、安全をトコトン追求する姿勢を貫徹してはどうだろうか。その方が問題の所在が浮き彫りにされる。

千野境子Keiko Chino

Profile
産経新聞 客員論説委員
神奈川県横浜市出身。早稲田大学第一文学部卒業後、産経新聞社入社。マニラ特派員、ニューヨーク支局長、外信部長、シンガポール支局長、論説委員長などを歴任。最新刊は「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」。

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