「脱石炭」は日本経済の破滅への入り口だ(上)
02 Sep 2020
日本の石炭火力発電を取り巻く状況が厳しくなっている。その象徴的な出来事が昨年12月に日本が受賞した「化石賞」。新聞やテレビの報道では不名誉な賞とされたが、私は「名誉ある賞」だと強く言いたい。これは私の偏見だろうが、環境市民団体から賞賛されたら、むしろそのほうが危うい状況だと思っている。「エネルギー自給率が極めて低く、資源もない日本にとって、石炭火力は絶対に必要だ」との独自の戦略、姿勢を日本国民だけでなく、海外にも向けて訴えていくべきだろう。
なぜ中国を批判しないのか不思議
なぜ、こんな世論を逆なでするようなことを言うかといえば、長く毎日新聞の記者として取材してきた経験からの直感(皮膚感覚)だ。遺伝子組み換え作物や農薬などの問題で環境保護団体と政府、企業、専門家との議論、交渉、確執を見てきた結果、気づいたことが2つある。
ひとつは、EU(欧州連合)の政策が正しく、米国や日本は悪という構図だ。
もうひとつは、中国の悪口を言わないことだ。
この2つは、環境市民団体(幅広く言えば消費者団体)の「思考の癖」といってもよい。
国際NGO「気候行動ネットワーク」(CAN)は昨年12月、スペインで開かれたCOP25(気候変動枠組条約第25回締約国会議)で、脱石炭を示さない日本に「化石賞」を贈った。政府を批判することに使命感をもつマスメディアはすぐさま不名誉な賞として報じた。化石賞はロシア、豪州、カナダ、米国、ブラジルなども受賞している。EU(欧州連合)も一度、受賞しているが、受賞の回数(米国6回、豪州5回、ブラジル3回、日本やカナダ2回など)から見て、脱石炭を打ち出すEU諸国の政策が正しく、米国や日本は温暖化問題の解決に消極的だというイメージをマスメディアはふりまいている。
いくら中国が石炭火力を増やし、二酸化炭素を大量に出そうが、中国に化石賞を贈ることはない。なぜなのか本当に不思議である。このことを見るだけでも、化石賞はどこかイデオロギー臭のするうさん臭さを感じる。中国をかばう賞なら、むしろ名誉ある賞だと思ったほうがよいと皮肉を言いたくなる気持ちもお分かりいただけるだろう。
EUの政策が正しいお手本?
この2つの思考癖については、もちろん、細かく見れば、例外的な現象は多々あるだろうが、ことあるごとに環境市民団体は「EUでは遺伝子組み換え作物の表示に厳しい」「EU並みにゲノム編集食品も遺伝子組み換えとみなすべきだ」「日本もEU並みに残留農薬の基準値を厳しくすべきだ」「EUはホルモン剤を使用した米国産牛肉の輸入を認めていない。日本も見倣うべきだ」「EUは家畜の福祉に熱心だ」などとEUの政策、価値観を正しい基準とみなして、日本や米国を批判している。
農業の世界でも同様の癖が見える。日本の生産者(国や県の研究機関も含む)が知的財産権をもつ高級ブドウやイチゴが知らぬ間に中国や韓国で無断栽培される事件が相次いだ。韓国のイチゴの9割近くは日本の品種がもとになっているというから驚く。
そこで農水省は今年、種苗法を改正して、生産者の自家増殖に対し開発者の許諾を必要とし、開発者の知的財産権をより守ろうとしたが、環境市民団体は「海外の巨大企業に日本の種子が支配される」などの理由で反対し、今年夏、法案改正は先送りになった。市民団体は中国や韓国を非難するのではなく、日本政府や米国の多国籍巨大企業を批判するという妄想に近い反対運動がマスメディアを賑わした。
こういうEU理想主義、反米反日の特徴はゲノム編集など農業の世界だけかと思いきや、最近のエネルギー報道を見ていると、脱石炭を打ち出し、太陽光や風力など再生可能エネルギーを積極的に増やしているEUが正しく、それに比べて日本は遅れているという論調ばかりが目立つことに気づく。
日本とEUは地政学的に異なる存在
エネルギー問題に詳しくない私でさえ、少し考えれば分かるように、日本とEUの置かれた状況は地政学的に全く異なる。環境市民団体がほめそやすような政策を日本が真に受けて実施していけば、おそらく日本の国益が損なわれ、いずれエネルギー危機に襲われる経済的地獄が待っているだけだろう。資源のない日本の国民(もしくは国家)にとって、絶対にはずせないエネルギー供給の大原則がある。それは以下の5つの原則だ。
- エネルギーの安定供給
- エネルギーの安全保障(供給が途絶しないような安全保障政策の確立)
- コストの低いエネルギー資源の確保
- 環境に大きな負荷を与えないエネルギーの組み合わせの確保
- 世論の支持が得られるようなエネルギーの安定確保策
この原則は、どの国も生きていくうえで必要な糧なので、EUにもあてはまるだろう。しかし、EUが脱石炭を進めるのは自国の利益にかなうからであり、また自国の産業を育成するためでもある。決してEUは地球の問題を解決するために犠牲的精神で脱石炭を進めているわけではない。脱石炭火力を進めても、さほど自国経済に打撃がなければ、再生可能エネルギーによる発電を進めていくだろう。EUは陸続きゆえに変動の激しい太陽光や風力エネルギーが余った場合には、お互いに余剰電力を融通し合うことが可能だ。しかし、海に囲まれた日本はそうはいかない。
マスメディアは何かとドイツのエネルギー政策を理想視するが、中国に大量の車を輸出するドイツは、中国経済に極めて強く依存しているだけに、中国の悪口を言わない。中国を忖度しながら、自国の利益に沿ったエネルギー政策を進めているだけであり、ドイツと日本は置かれた地政学的な状況は全く違うことを知っておきたい。
情けない新聞の社説
今年7月3日、経済産業省は「旧式の石炭火力発電所の9割に相当する100基を2030年までに休廃止する」と発表した。この発表に関する主要新聞の見出しを見た人の多くは、「ついに日本も世界の流れにのって、脱石炭に向かうのか」と思ったに違いない。
ところが、これに対し、環境市民団体「気候ネットワーク」(日本)は7月6日、「脱石炭にはほど遠い『石炭の長期延命策』であることが鮮明に」との見出しで反論をホームページに載せた。この気候ネットワークの分析結果を見て、私はむしろホッとした。日本ではこれからも石炭火力が生き残っていくのだという方向性が見えたからだ。
この点に関して情けないのは各種新聞の社説だ。「気候ネットワーク」の代理弁護人かと思われるほどのオウム返しだ。読売新聞と産経新聞を除き、ほとんどの社説は共同通信社も含め、「石炭依存をやめられない日本は世界で厳しい批判を浴びてきた」「石炭火力の全廃が国際社会の一員としての務めである」「石炭火力の輸出から早急に手を引かねばならない」といった調子だ。要するに「世界の潮流に乗り遅れるな」というEU迎合的な評論家的スタンスだ。
こういうスローガンだけのきれいごと社説を見ていると、かつての民主党政権のスローガン政治を思い出す。理想やスローガンを掲げれば、エネルギーが天から降ってくるとでもいうのだろうか。こういう社説は一種の念仏論だ。
エネルギーの安全保障、安定供給には、そのエネルギーを海外から調達する(莫大な外貨がいる)ための涙ぐましい民間産業の育成、競争力の維持が必要である。
石炭は石油と異なり、中東に依存していない。政治的にも安定した豪州をはじめ、インドネシア、ロシア、カナダなどから輸入できる。資源確保のうえでリスク分散は基本中の基本である。日本の産業や市民の生活にエネルギーを供給する構成も、石炭、石油、ガス、水力、原子力、自然エネルギー(太陽光や風力、バイオマス)を分散して確保していくのが、これまた基本中の基本である。特定のエネルギー源に依存し過ぎると、いざというときの備えに弱い。
マスメディアと環境市民団体は、仮に日本がエネルギー危機に見舞われてエネルギーが途絶しても、その責任をとってくれるわけではない。環境市民団体やメディアは、国の富を創り出すことにほとんど関心がない。また富を創り出す具体的な政策案にも関心がない。
エネルギー供給確保のリスク分散から見て、石炭火力を確保しておくのはごく常識的なことのように思えるが、マスメディアの思考は違うようだ。
実は、石炭火力が必要な理由として、まだ触れていない重要なことがある。それが何かを後編で述べてみたい。
(次回に続く)