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科学者は市民意識でアクションを
なぜ、科学者は市民に負けるのか。これが前回コラムのテーマだった。今回は、では、どういう場合に科学者が市民に勝つ(科学者の意見が世間やメディアに伝わることを勝つと定義)のかを考えてみたい。具体的な例を示すのが一番よいだろう。東京の築地市場が豊洲に移転するかどうかをめぐって、当時の小池知事は「(豊洲に移転することは、科学的にみれば安全かもしれないが、安心が達成されていない」といったニュアンスの発言を繰り返していた。豊洲の地下水から発がん性物質のベンゼンが環境基準値を超えて検出されたため、新聞やテレビなどのメディアも、さも健康被害が生じるかのような論調を展開していた。しかし、その地下水は飲み水ではない。あえて健康リスクを言うならば、地下水から揮発したごくごく微量のベンゼンを市場の人たちが吸うリスクだった。そんなリスクがほぼゼロに近いことは、ほとんどの科学者が知っていた。それでも、一部の新聞には「健康への影響は重大だ」というコメントを載せていた科学者が1人いた。メディアはたいていの場合、政府に批判的な意見を述べる科学者を好む。社会に対して、なにか異議を唱えることが記者の使命だと根っから思い込んでいるからだ。それがメディアの習性である。ところが、記者という人間は、世の中の動き、つまり「世論」に敏感な生き物でもある。市民や市民団体のアクションを見れば、たとえ市民団体の意見に賛同していなくても、一応は市民団体の話を聞き、記事にしたりする。ニュースになるからだ。これも記者の習性である。科学者に必要なのは「市民意識」ならば、科学者も市民や市民団体と同じような行動をとればよいということになる。築地市場の移転が遅々として進まず、安心を軸に動いていた事態の推移を見かねた私の知人の科学者たちが「どこかに記者を集めて、説明したいが、どうすればよいか」と私に尋ねてきた。私は「問題を担当している東京都庁の記者クラブで緊急記者会見を開く」ことを提案した。記者クラブなら、記者を集める必要はない。労力もかからない。記者たちがそこに常駐しているからだ。しかもテレビの記者もいる。幹事社に連絡して、了承を得れば、電話一本で会見は開ける。その科学者たちは日本リスク研究学会に属する研究者たちだった。電話一本で約10日後に記者会見が実現した。2017年3月のことだ。私も会見に出席した。新聞、テレビの記者たちが10人以上来ていた。3人の科学者たちが会見席にすわった。記者がひと目で理解できるようなフリップを用意していた。衛生管理面でどちらの市場がすぐれているかがパッと見ただけでわかるように「〇〇面では築地市場×、豊洲市場◎」といった工夫を凝らしていた。3人は堂々と自信たっぷりに「豊洲市場のほうが間違いなく安全である」と言い切った。さらに続けた。「豊洲が安全だ」と言っているのは私たち3人だけではなく、他にも30人以上いると力説し、その署名簿まで手渡した。多数の同調者がいることを記者たちに示したのである。記者たちにとって、こういう科学的な内容をしっかりと聞くのは珍しかったようで、効果はてきめんだった。会見が終わったあと、記者たちは次々にその科学者たちと名刺を交換した。そして翌朝を迎えた。テレビを見たら、なんと民放の情報番組で3人がばっちりと写り、あのフリップをテレビ画面いっぱいに見せて、豊洲のほうが安全だと主張する多数の科学者たちが会見したという内容を流していた。私もテレビを見ていたが、豊洲のほうが安全であるというメッセージが確実に伝わる内容だった。その後、その科学者たちはNHKも含め、他のテレビ局にも呼ばれ、自説を述べる機会に恵まれた。個人的な感想ではあるが、その科学者たちの出現をきっかけに風向きが変わり、記者たちの批判的なトーンは穏やかになっていったように思う。記者たちは世論に敏感だが、その世論の中には科学者も含まれる。複数の科学者たちが記者クラブに駆け付けて、悲壮感を露わにして何ごとかを訴えれば、そこそこの緊迫感、メッセージが伝わるのだ。子宮頸がんワクチンの教訓しかし、40年近く記者をやっていて、そういう科学者たちの果敢なアクションを見るのは、1年に1度か2度しかない。大事なのはアクションであり、リリースや声明の文字ではない。子宮頸がんを予防するHPVワクチンの惨憺たる状況を見てほしい。2013年4月、国の定期接種が始まったが、ワクチンの副作用だと主張する被害者たちの訴えによって、わずか2カ月後に接種の勧奨が中止となった。以来、接種率はゼロに近い状態が続いている。このままだと先進国では日本だけが子宮頸がんの多発国になるだろう。不思議なのは、産婦人科医師や感染症の研究者の9割以上はHPVワクチンの接種再開を支持していることだ(私の推定)。胸の内では「早く再開すべきだ」と思っているだろうが、それは思いのままでとどまっている。もちろん、学会のホームページには自分たちの意見や科学的事実をときどき載せているが、いつ載せたかも分からず、私でさえ1カ月たって初めて気づくことが多かった。つまり、学会はリリース文を出したり、年に1度、シンポジウムを開いたりするが、記者への直接のアクションは起こしていない。もしリリースを出すなら、同時に厚生労働省の記者クラブへ出かけ、記者会見で発表すればよいのにと思うが、それもしない。世界保健機関(WHO)も、ワクチン接種を禁止状態にしている日本を名指しで批判している。そういう状況の中でも、メディアは「早く接種再開を」とは絶対に書かない。市民団体からの抗議が怖いからだ。 政府が接種再開に動けば、メディアも追随するだろうが、自らは動こうとしない。下手に自ら動いて市民から批判を受ければ、得るものは何もないからだ。学者や研究者が生きる科学の世界と、市民が決定権をもつ市民社会(俗世間)は、全く別の論理で動く別世界である。科学者が勝つには、俗世間につながる橋を渡って、市民意識をもつ必要がある。それには勇気と行動力がいる。築地市場の移転問題のように常に成功するとも限らないが、複数の有志が集まれば、決してやれないことはない。どちらにせよ、世の中を動かすには具体的なアクションが絶対に欠かせない。次回は、メディアに対して、どうアクションの方法があるかを提案したい。
- 10 Oct 2018
- COLUMN
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なぜ、科学者は”市民”に負けるのか ― メディアと市民と科学者の力学について ―
なぜ、多数派の科学者の考えが市民にしっかりと伝わらないのか。これが、長く記者生活を送ってきた私の現在の疑問である。たとえば、牛の放射性セシウムの検査。農水省の調査によると、2013年以降、牛肉からは基準値の1キログラムあたり100ベクレルを超える例はない。もはや牛のセシウム問題は収束したといってよい。ところが、福島だけでなく、東日本の他県の牛まで延々と全頭検査が続いている。おそらく食品科学に詳しい専門家100人に聞けば、99人が「検査する根拠はない」と答えるはずだ。ところが、それを言い出す科学者はいないし、メディアもあまり伝えない。もし10人の科学者が農水省の記者クラブに飛び込み、「いつまで、こんな無駄な検査をやっているんだ。そんなお金があったら、待機児童の解消に使うべきだ」と強い口調と情熱を込めて、緊急記者会見を開けば、一定の報道効果はあると思うが、そういうアクションを起こす気配はないようだ。実は、似たような問題は、他の分野でもある。遺伝子組み換え作物はすでに1996年から、米国やカナダなどから大量に輸入され、家畜のえさや食用油の原料などに使われているが、いまだに「組み換え作物が自閉症の原因では」など、およそありえないトンデモ情報が幅をきかせている。法律では日本国内で組み換え作物を栽培しても何ら問題はないが、どの農家も栽培しない。市民団体からの抗議を恐れているからだ。食品に放射線を当てて殺菌する食品照射は、世界では香辛料など数多くの食品を対象に50カ国以上で承認されている。ところが、日本ではいまだ1972年に国が許可した北海道のジャガイモだけだ。10数年前、香辛料の業界が前向きに検討したが、市民団体の反対に遭い、断念。結局、この50年余り、社会的な理解は全く進んでいない。ネットで「照射、ジャガイモ」を検索するといまもネガティブな情報ばかりが上位に来る状況である。なぜ、こういう状況が生まれるのか。それが記者生活の中で常に抱いていた疑問だった。その解明の糸口を求めて、ずっと考えてきたが、最近になってようやく「いまは市民が物事を決める市民社会である」という厳然たる事情が背景にあることに気づいた。メディアは市民を忖度する主役は、科学者ではなく、市民だということだ。少し考えれば分かるが、メディアを支えているのは市民である。新聞もテレビも雑誌も、市民の購読(テレビは企業の広告収入に頼るが、市民の視聴率が支え)によって成り立つ産業である。憲法で言論の自由が保障されていて、一見、言論の自由は経済的な行為とは無縁のようにみえるが、実はメディアが発信する情報は一般の商品と同様にお金で取引される商品である。お金を出すのは市民である。市場社会ではお金がモノをいう。お金を出す側が強いのは当然である。その結果、どういうことが起きるだろうか。メディアは顧客の気持ちに寄り添って、商売をする(情報を売る)ようになる。顧客から見放されたら、商売自体が成り立たなくなるからだ。言論の自由といったところで、現実には、情報を売って身を立てる経済的な行為の中でしか成立していないのである。新聞が市民からの抗議に弱いのは、それを無視し続けると購読者が減ってしまうからだ。メディアが市民に迎合しやすいのは、選挙で政治家が市民におもねるのと似ている。政治家は市民の1票欲しさに無責任なことを口走るが、メディアは購読を維持するために、市民の要求をのむ。そして、市民の側に立つ。この問題を食品や環境問題のリスク報道に移して考えると、メディアは市民の気持ちに寄り添う形で市民の不安をニュースに取り込んでいくということだ。科学者が安全だといっても、一定数の市民が「不安です」と騒げば、メディアはそういう市民の不安に寄り添うのである。メディアにとって重要なのは、リスクが高いか低いかというよりも、市民の不安をどれだけくみ取るかである。多数の専門家が安全ですといっても、「私たち市民は安心できません」という構図がある限り、そこに記者たちはニュース価値を見つけて、市民を忖度した報道をしてゆく。今年5月から、ある週刊誌が「危ない国産品リスト」というタイトルで食品添加物を目の敵にして、延々と特集を続けているのも、その論調に共鳴する市民たちがいて、一定数の販売が見込めるからだ。そこに登場する人たちは、一部の偏った活動家や学者ばかりだ。どうみても、多数の食品科学者から一目置かれるような実績のある科学者ではない。それでもいいのだ。その週刊誌の狙いは市民に受けて、売れればよいのだから。とはいえ、あまりにも非科学的な情報を発信する同誌に対し、私が共同代表を務めるボランティアのメディアチェック団体「食品安全情報ネットワーク」(もうひとりの共同代表は唐木英明・東大名誉教授)は意見書を送り、問題点を指摘した。それが別の週刊誌の目に留まり、両誌はそれぞれを批判する論陣をはった。ところが、最初に報道した週刊誌から「お前だって、以前に添加物の危険性をあおっていたではないか」と逆襲され、あっけなく2回の記事で終わった。売れ行きもよくなかったと聞く。安全な情報は売れ行きがよくないというお手本のような例であった。福島の原発事故以降、どのメディアも特定の市民層を囲い込み、特定の論調(反原発とか反ワクチンとか)を好む読者層とともに運命をともにする路線を取り始めたように思う。これが市民社会の分断につながり、メディアの「島宇宙化((島宇宙化とは、銀河が島のように宇宙に散在していることから、同じ価値観をもったものだけで場を作ることをいう))」をもたらした。主要紙とされる新聞社でもがっぷり四つで対立できるのは、それぞれを支える市民層がいるからだ。その意味では多様な言論の成立には多様な市民が必要である。こういう中で科学者はどう振舞えばよいのだろうか。次回のコラムで私なりの考えを述べてみたい。
- 30 Jul 2018
- COLUMN